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日蓮大聖人・池田大作

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第八章 全体(健康)と安楽の欠如(病気…  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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8  現代病を最大限に防ぐ法
 池田 日本人の三大死因は、ガン、脳卒中、心臓病ですが、これを最大限に防ぐ方法はどうですか。
 屋嘉比 予防となれば、やはり食事がポイントになりますね。三年前、アメリカの国立ガン研究所も食事内容がガンになる因子を排除する基本であると、報告しています。
 池田 他の二つの病気はどうですか。
 屋嘉比 脳血管疾患と心疾患の原因となる高血圧症や動脈硬化症を防ぐのも、食生活の配慮が第一歩になってきます。
 池田 すると具体的には、どのように気をつければいいのか。
 屋嘉比 第一に、肉食を少なくして野菜を多くとる。第二に塩分はひかえめにする。第三に過度の飲酒、喫煙など刺激物を避けて、睡眠を十分にとるよう心がけること。これが基本になります。
 池田 でしょうね。私は目下のところ、全部落第ですね。(大笑い)
 よく生野菜を食べるように、女房から言われますが。
 屋嘉比 ビタミンAやCやEは発ガンを抑制すると言われています。とくに緑黄色野菜は、ガンの予防にいいようです。
 また動物性脂肪を多量にとる人は、ガンの発生、また血管、血圧の疾病にかかりやすいといえます。
 池田 ほかにも注意することはありますか。
 屋嘉比 やはり、精神的要因も重要になってくると思います。
 ストレスと病気という問題も、現代医学の大きなテーマです。
 池田 たまに、友人などが心筋梗塞になったことを聞いたりする。
 この発作の場合は、どう対応したらよいか。
 屋嘉比 心筋梗塞は、発病初期の危機を乗り越えることができれば、多くは助かります。ですから、一刻も早く救急車の手配をし、CCUという特別な設備のある病院に運ぶことです。
 池田 なにか注意することは……。
 屋嘉比 この病気は発作をおこすまえに、なにか前兆があるはずです。
 たとえば、スポーツや階段を駆けのぼったりしたときに、前胸部の痛みや圧迫感などを感じたら、ムリをせず、医師に診てもらうことが大事を防ぐことになります。
 池田 現代人はあまり歩かない。足の退化は健康によくない。(笑い)
 一日、何歩ぐらい歩けばいいのか。
 屋嘉比 その人の健康状態にもよりますが、最低一万歩とする意見があります。
 池田 なるほど。これもまったく落第だ(爆笑)。どのくらいの時間、歩けばいいのか。
 屋嘉比 散歩ていどですと、百五十分ぐらいかかるようです。
 ただ、だれもが毎日そんなに散歩の時間をとることはできません。主婦の場合は台所や買い物、またサラリーマンは社内や通勤などで、身体を動かしている時間が百五十分を超えると、一万歩ぐらいになるようです。
 池田 一万歩というのは、医学的になにか裏づけがあるのですか。
 屋嘉比 信頼できる統計によりますと、一日一万歩歩いている人は、循環器系の成人病が抑えられていることが明らかです。
 もちろん、心臓の負担には個人差があります。その人の体調や年齢の差もありますから、いきなり一日一万歩を歩いても、逆効果になる場合があります。
 池田 でしょうね。私も万歩計を持って、努力するか……。(笑い)
 屋嘉比 ただ同じ歩くのでも、速足のほうが効果があるようです。また歩幅をとる歩き方のほうが、新陳代謝や心臓の働きの強化になると、同僚の専門医も強調しています。
 池田 では足の話のついでに、水虫の人が意外と多いが(笑い)、治療はどうしたらよいか。
 屋嘉比 水虫は、カビの一種である白癬菌が原因となる皮膚病です。治療法は、カビですからまず乾燥させること。そして塗り薬を根気よく塗ることが大切となります。
 ―― 市販の薬をつけて、かえって、悪くなったという人もいますが。
 屋嘉比 それは薬の使い方が適切でなかったため、かぶれたり、余計に刺激したりして、二次感染をおこしたためでしょう。
 足の指の間が割れて、ジクジクしている場合は、専門医に診てもらうべきです。
 池田 もう少し身近なことをうかがいますが、当然、これも個人差があるでしょうが、お風呂は何度ぐらいが適温なんですか。
 屋嘉比 ふつうは、四十~四十二度ぐらいが適温とされます。
 ただ、体調によって適温も変わるようです。
 池田 よく、“一番湯”はよくないといわれますが。
 屋嘉比 まだだれも入ってないお湯は、熱の伝わり方が強いので、心臓に負担をかけることになるからです。
 ―― “江戸っ子は熱湯が好きだ”なんていうんですが。(笑い)
 屋嘉比 お年寄りや病気の人は、避けたほうがよいでしょう。同じ意味で、高血圧や心臓病の気のある人などは、ぬるい湯のほうがよいようです。また、不眠症の人は、寝るまえにお風呂に入って身体を温めると、寝やすくなります。これは筋肉をほぐすことによって、自律神経のバランスが変わるからです。
 ―― では、老化の問題で多少ふれましたが、よく政治家は七十歳を過ぎても元気だといわれる。これはどうなんですか。(笑い)
 池田 いや、そういう人もいるが、むしろ政治そのものが高齢者の仕事となってしまってきた。ですから、激しい生存競争に勝ちぬいた人が残ったと、私はみたい。
 どこの世界でも全員がまったくの健康というわけにはいかないでしょう。どうでしょうか。
 屋嘉比 そう思います。ただ、人よりも頭を使い、大きい仕事をしているという精神的側面が、その人の健康を支えていることはあると思います。
 ―― 俗に“悪人は長生きする”などといいますが(笑い)、私はどうも、善人よりも悪人のほうが丈夫なような感じをもちますが。(笑い)
 池田 そうかもしれない(笑い)。文化が発達する以前は、人間性よりも武力、いわば獣性を強くもっていた人間のほうが勝ち残っていったのは事実だ。
 ですから高度な教養性、精神性、また文化的なものが従になっているあいだは、真実の意味の進歩的社会とはいえない。
 また、もうひとつの側面としては、現代のような文化・文明の進歩が、逆に人間のなかの攻撃性を誘発し、獣性に対する歯止めがきかなくなってきているということも、鋭く見ていかねばならないでしょう。
9  より深き人生を志向する健康観
 ―― ところで、家庭常備の医学書がよくある。うちにもあります。こういうハウツーものはたいへん便利です。ただそれだけの素人判断では、むずかしい場合があると思いますが。
 屋嘉比 そのとおりだと思います。
 ひとつの病にもさまざまな複合的な問題があるわけです。
 たとえばタンに血がまじっているだけで、本に出ているからと、すぐ肺ガンと勘違いする人もいます。やはり医師の診断が大事でしょう。
 池田 そのへんの賢明な使いわけが、大切となってくるわけですね。
 ま、一事が万事で、これは人生万般にも通ずることでしょう。
 ―― 健康書がよく読まれるのも、裏返せば、それだけ健康に対する不安感が増大している証左でしょうね。
 池田 これは現代と未来の重大な課題でしょう。
 いわゆる「身体的健康」「心の健康」「社会的健康」。
 この三つの問題は、社会が複雑になればなるほど、むずかしくなる。
 ―― まったく「健康とはいったいなんなのか」ということが、問われる時代に入ってきた。この点、仏法者である池田先生はどうみられますか。
 池田 いや、これはもう屋嘉比さんの専門分野でしょう。(笑い)
 要約していえば、法華経では「命濁」(生命自体の濁り)、「見濁」(思想の濁り)、「煩悩濁」(本能的な迷い)、「衆生濁」(人間社会の濁り)、「劫濁」(時代の濁り)の「五濁」という、多重なる次元の連関性と全体観のうえから、人間の「病」ということもとらえているわけです。
 屋嘉比 よくわかります。
 池田 そこで、一般論的にも「健康」、つまりhealthという英語の語源には「全体」、また「完全」という意味もあるようだ。ですから、まず「色心」ともに、つまり「身体」と「心」がともに健康でなければならない。
 屋嘉比 たんに検査で異常がないというだけでなく、生きいきと社会のなかで活躍していく姿に、本来の健康の意義があると思います。
 ―― では「病気」という言葉はどうでしょうか。
 池田 いや、これも屋嘉比さんの分野ですが、また専門的にはいろいろな定義があると思いますが、「病気」(disease)とは「安楽の欠如」という、古代フランス語に由来していることから考えていただきたい。
 屋嘉比 医学者としても、両方ともなにかしら深い人間生命への思索と、直観が込められているように、私は強く感じられてなりません。
 池田 この「安楽」という言葉は、法華経の「安楽行品」という経典にあります。
 これには甚深の義がありますが、人生、生活の一次元でいえば、「安楽」とは苦難を避けていくことではない。その苦難の連続をも悠々と乗り越えゆくなかにこそ、じつは真実の人生の「安楽」があるという、達観した境涯のことと思います。
 屋嘉比 仏法は、一つひとつの言葉のなかに、じつに深い意義が込められていますね。
 池田 ともかく屋嘉比さん、生命の「生」と「老」と「病」と「死」という問題は、いつになっても永遠の課題であり、最も重大な問題ですね。
 屋嘉比 私は、その「病」の問題解決に、一生を賭けようと思って医者になりました。
 しかし、探究すればするほど、医学の限界を感じてならないんです。
 池田 謙虚な言葉です。
 屋嘉比 人間なにをするにも、行動の根本は健康でなくてはならない。
 池田 まったく同感です。
 べルクソンの言葉ではないけれども、健康とは「行動への意欲をもち、社会生活に柔軟に適合しながらさらに歴史創造への理想をもつ」ということになりますからね。
 このベルクソンの言葉は、私が青春時代から大好きな言葉でした。
 そこで入信当初、仏法の奥義のひとつに「上行」「無辺行」「浄行」「安立行」という法華経の経文がありますが、この意義について、たいへんに感動したことをよく覚えております。
 つまりこれは、別しては、仏の「常楽我浄」の「四徳」。総じては、一切の生命がもつ徳用をあらわしている。
 屋嘉比 たしかに、文字だけを見ても、なにか生命自体の素晴らしい躍動感を感じますね。
 ぜひ、この「上行」「無辺行」「浄行」「安立行」ということについても、生命論のうえから、なにかの機会に論じていただければ、ありがたいと思いますが。
 池田 よくわかりました。またいつかいたしましょう。たしかに、これを解釈するには、重々の論議が必要となってきます。
 ただ、ベルクソンの思索が、この奥義の一端に近づいていることだけはいえると思うのです。
 また、仏法の、「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」という言葉も、私が感銘した一節です。
 「浅き」とは浅き教えである。「深き」とは法華経である。末法においては「妙法」である。
 またこの大法を、世界に流布しゆく行動の意義も含まれている。
 ですから、次元を変えてみれば、浅き人生観からより深き人生観へと、常に志向しゆくことが大切なことともとらえることができる。
 そこに、自身の人生の確かなる充実感と向上があるということにもなるでしょう。

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