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日蓮大聖人・池田大作

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第七章 生命の法理「蓮華」  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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10  光彩を放ちつつ昇る太陽の「法」
 池田 ですから、ここで整理させていただくと、私の浅薄な見方になってしまうかもしれませんが、釈尊の八万法蔵の法門は、そのプロセスのうえに、原因・結果の因果論を説いてきたといえる。
 そして最高峰といわれる法華経にいたっては、「空仮中の三諦」「法報応の三身」ならびに「十界互具」「一念三千」等々という多重な次元から、生命というものの実相を明かしきっている。
 ── なるほど、そうですね。
 池田 今度は、釈尊の仏法は、「大集経」という経文でいわれているのですが、正法年間、像法年間の約二千年でまったく効力を失い、末法の衆生とはまったく縁なき「法」となる。末法の時代に入ってからは、その末法の仏が説く「法」によって結縁され、成仏していく以外ないということになるのです。
 そして、ご存じのとおり、末法に入って日蓮大聖人の御出現があり、末法万年を志向されて、多くの宗派との法論のうえからも証明された「大法」を樹立されたわけです。
 その法こそが、久遠元初より無始無終であり、永遠にわたる真理である「南無妙法蓮華経」という、仏法の極説中の極説の「法」となり、即一幅の御本尊となるわけです。
 屋嘉比 その御本尊に、仏法のすべてが凝結されているわけですね。
 池田 そのとおりです。ですから、過去も、現在も、未来も、また一切の因果も超克し、かつ一切を強力に発現しゆく本源の大法則こそ、「南無妙法蓮華経」といえるのではないでしょうか。
 この御本尊に帰命しゆくときのみ、私どもの生命も、久遠元初の若々しい生命として輝き、広がりゆく。ゆえに、私どもの過去遠遠劫からの罪業を、一生のうちに転換せしめゆく方程式がここにあるわけです。
 屋嘉比 なるほど。
 池田 こうして釈尊の仏法は、すでに使命が終わった。そのようないくつもの理由から、「本果妙」の仏法となるわけです。
 それに対し、第六章でも少々論じさせていただきましたが、日蓮大聖人の仏法を「本因妙」とたてます。その本因妙の仏法である、御本尊に帰命しゆくときに、初めて天上界、菩薩界をも突き抜け、ついには仏界へと、自分自身の内なる根源力を、無限に発現しゆくことができるわけです。
 これは、現世だけではなく、三世永遠に連なる生命を躍動させ、強靭にして崩れざる仏の「我」を、強めていくことができるわけです。
 屋嘉比 素晴らしいことです。
 池田 ですから、大聖人の仏法における「本因本果」とは、この根本的善の原因であり、根本的善の結果ということができます。
 言うなれば、「本因妙」の仏法は、太陽が無限の光彩を放ちながら昇りゆく姿といえるかもしれない。
 それに対し、インド応誕の釈尊の仏法は、夕日の沈みゆくがごときものである。
 ── つまり……。
 池田 「本因妙」の仏法は、生きとし生けるものすべてをして、ありとあらゆる煩悩、そしてまた生死の闇を赫々と照らしながら転換させ、さらに超克せしめゆく、「現当二世」の「大法」であるわけです。
 これに対し釈尊の仏法は、過去遠遠劫より調機調養されてきた有縁の衆生を救済する役割が、すでに終わった仏法となるのです。
 ── この「現当二世」という意義について、池田先生は本年(一九八五年)三月、東京の町田の会合で詳しく語っておられましたね。
 池田 いたしました。その話も、この「対談」に通ずるのです。新聞にも出てますので、参考のためにいっぺん読んでみてください。
11  よき根本原因を作るための信仰
 池田 要するに、人は幸福になりたいものだ。つまり、幸福は人生の目的である。
 しかし、相対的な範疇での幸福は感じても、絶対性の幸福というものはわからないものです。
 屋嘉比 ええ。たとえば、病気が治る。これはひとつの幸福である。しかし、またいつ病気になるかもしれない……。
 池田 また、自分は幸福になりたくても、どうしても幸福になれないものがある。
 それを仏法では、「悪業」とも「罪業」ともいっております。
 人間には、どうしようもない、流転の傾向性があるといえるでしょう。
 その宿命というか、宿業というものを乗り越えて、自分自身の本来的な無限の自由性への発現をなしゆく。そしてまた、無量の福運を積みゆく方向へと、志向していくのが、仏法の信仰なのです。
 屋嘉比 因果とか宿業というと、なにか暗いイメージがありましたが、本来の仏法は、今日を、そして明日へ、さらには未来へという、まことにダイナミックなものであることがよくわかりました。
 池田 私も、信仰してそれがわかりました。つまり、一切の不幸の宿命や罪業を、根本的次元から転換しゆくのが、「本因妙」のこの仏法なのです。
 屋嘉比 “本因の法”という意味は素晴らしいと思います。
 池田 ただし、信心の厚薄によるということが、大前提となる。
 「叶ひ叶はぬは御信心により候べし」とあるとおりです。
 ── 当然ですね。
 池田 頭が疲れてきたもので、いい例ではありませんが(爆笑)、その宿命転換しゆく法の力は、億万ボルトの電流が、生命の「一心」に伝わるようなものといえるでしょう。
 ── すると、われわれの努力とか向上への力は、せいぜい千ボルトか二千ボルトぐらいの働きしかない。
 (笑い)
 池田 いや、仏法はその進歩と向上への努力を、最大限に価値あらしめる根源の法則なんです。生活を離れての仏法の信仰はありえないし、また絶対にあってもならない。
 屋嘉比 同じ医学の講義でも、超一流の力をもつ教授の講義を受けた場合と、仲間うちの場合とでは、やはり、ボルテージが全然違うんです。(笑い)
 池田 同じような意味になりますが、「本因妙」の仏法の力は、清らかな大河の流れのようなものである。幸福という「一念」の大海に、間違いなく入っていくことができる。
 たしかに、われわれにはそれぞれ、大小さまざまな宿命があるかもしれない。また、罪障もあるかもしれない。しかし、どれだけあるか計算することはできない。(笑い)
 だが、この「本因妙」の仏法という大河の流れに、ひとたび「一念」が入った場合は、ありとあらゆるものを浄化させながら、滔々たる奔流となる。
 屋嘉比 人間の身体も、絶えずものすごいスピードで変化していきます。私の専門の「胃」でも、毎日毎日、細胞はすさまじい分裂をし、傷を修理し、悪いものを流していきます。驚くことに、胃の粘膜の表面は三日間で全部変わるんです。
 ── はあ。人間は、身体も生命もまったく素晴らしい。(笑い)
 池田 ですから、私どもは、仏の境涯に到達したい。また、その過程において、現実の生活に勝利したい。
 つまり、この根本法則である「本因妙」の仏法にのっとって、壮大なる境涯の人生と、確かなる過ちなき幸福への生活とを歩みたいがゆえに、日々、精進しているわけです。
 屋嘉比 その確かなる法則にのっとりながら、すべての人が、自分らしく人生を歩んでいけるということは、素晴らしいことですね。
 池田 つまり、よき根本的原因をつくりゆくための信仰であり、仏法なのです。
 朝な夕な、「本因妙」の仏法によって宿命転換への、つまり原因をつくることができる。
 その繰りかえしの人生のなかに、「一生成仏」の意義がある。
 ── なるほど。
 池田 ともあれ、だれびとたりとも今日が大切である。
 また日々、宿命を打開し、栄光への原因をつくりゆくことは素晴らしい。
 釈迦仏法は「歴劫修行」と説きますが、大聖人の仏法は、どこまでも現実の生活を大事にしながらの「即身成仏」であり、「一生成仏」である。
 まあ、平たく言えば、瞬間瞬間を生きていく人生が、楽しみで横溢している境涯ということになるでしょうか。その「仏力」「法力」があるのです。
 その前提となるのが、私どもの「信力」「行力」であることは、言うまでもない。
 ですから、この「自受法楽」というか「常楽我浄」というか、人生の最高最善の価値を、自身の内なる生命に証明しゆく毎日でありたいと願うがゆえに、私どもは信仰しているわけです。

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