Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 出生の不可思議  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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8  人間の条件とは
 ── ところで夫婦、つまり両親の性格は、子供にどのような影響をあたえていますか。
 池田 当然、遺伝的な面と、環境的な面と、両面での影響があるでしょうね。
 屋嘉比 そうです。遺伝の面では、子供の遺伝子は、父親と母親から、それぞれ半数ずつ伝えられたものですから、両方の影響があらわれます。
 池田 遺伝的には、あくまで両親の共同責任ということですね。(笑い)
 屋嘉比 そうなりますか。ただ、人間の遺伝子は、数万から数十万、あるいは百万以上ともいわれていますから、子供の性格のなかに、どれだけの遺伝子がからみあっているのか、追究はほとんど不可能だと思いますが。
 池田 よく男の子は母親似が多い、女の子は父親似が多い、といわれますが、科学的な根拠はありますか。
 屋嘉比 一般的にはありません。しかし、はっきりしているのは、十文字遺伝といって、たとえば色盲の場合です。父親が正常でも、母親が色盲だとしますと、女の子には色盲があらわれませんが、男の子には、色盲があらわれます。
 池田 逆の場合は、そうはならないのですか。
 屋嘉比 ええ、父親が色盲で、母親が正常のときは、少し複雑ですが、子供は男女とも正常であるか、あるいは男女とも五〇パーセントの確率で色盲となります。
 池田 すると、十文字遺伝というのは、必ずしも一般的な法則ではないわけですね。
 屋嘉比 むしろ、例外的といっていいと思います。
 池田 長男と次男、あるいは、一人っ子と兄弟の多い子とで、性格の違いがありますね。これなどはどう説明できますか。
 屋嘉比 両親のもっている遺伝子が、子供に分配されるのですから、親と子、兄弟同士が似ているのは当然です。
 ところが、数十万もあるという遺伝子の分配の仕方は、クジを引くようなもので(笑い)、その組み合わせは無数にちかいですから、兄弟同士でも違ってくることになります。
 ── なるほど。環境的な面ではどうですか。
 屋嘉比 むしろ、幼少期の両親の育児態度、家庭環境といった面で、両親の性格の影響力は大きいと思いますね。
 池田 人間の場合は、とくに、そうした躾、教育の役割を重視する必要がありますね。
 屋嘉比 そう思います。たとえば、アメリカの心理学者サイモンズ博士は、とくに、幼少期の子供に最も多く接する母親の育児態度を重視しています。
 母親が子供に対して、支配的か服従的か、保護的か拒否的か、という二つの尺度の組み合わせで、子供の性格形成を規定しようとしています。
 池田 両親の責任は平等であるといっても、母親は胎内にいるときから最も長く子供に接しているわけだから(笑い)、母親の影響の比重はたしかに大きいものがあるでしょうね。
 屋嘉比 そう思います。たとえば、母親が子供に対して、過度に支配的で保護的であると、これは「干渉しすぎ」になります。
 逆に、保護的で服従的な態度は「甘やかし」です。服従的で拒否的なのは「無関心」、支配的で拒否的なのは「残酷」という態度になる、というのです。
 これはもちろん、過度にいきすぎた場合ですが、大なり小なり、これらのどれかの傾向にあてはまるのではないでしょうか。
 ── たしかに、長男に対しては厳しく、次男あるいは末っ子に対しては放任したり、甘やかすという傾向はありますね。
 屋嘉比 それから、一人っ子で、兄弟ゲンカの経験がないと、どうしても孤立的になり、成長してからの人間関係で、ギクシャクするといった場合もあるようです。
 池田 そのとおりと思います。ともかく、性格形成の条件には複雑なものがあるが、やはり、両親自身の人生を生きる姿勢が大事でしょうね。
 みずからが価値ある目標に向かって、充実して、生きぬき、成長していく姿勢がなければ、真実の教育はありえない。
 人間は、夫婦、親子、友人関係にしても、また教師と生徒という師弟関係にしても、すべて互いの、人間と人間との打ち合いのなかに、自身も触発され、相手にもよい影響をあたえ、ともに成長していくものでしょう。
 ── 非常に示唆的なお話だと思います。
 そこで、「遺伝と環境」ということで、よく話題にされる「天才」の問題があります。天才の天才たるゆえんは、いったい何にあるのかということですが。
 池田 エジソンが、天才とは、一パーセントのインスピレーション(霊感)と、九九パーセントのパースピレーション(発汗)である、と言ったのは有名な話ですね。
 屋嘉比 九九パーセントは努力だということですね。
 池田 当然、持って生まれた才能や素質が前提になることは事実でしょう。しかし、それだけでは実際に開花し、偉業を達成することはできない。
 屋嘉比 「運・鈍・根」などともいわれますね。
 池田 そうですね。仏法では、人間の開花をもたらしゆく、より根本的な力として、「信根」「精進根」「念根」「定根」「慧根」という五根がありますが……。  
 人間の主体的な条件としては、やはり、集中力と持続力が大事でしょうね。「持続は力なり」ですね。
 もちろん、そうした集中力とか持続力とかの特質も、かなり遺伝的な要因として解明されるのでしょうが。
 屋嘉比 たしかに、生まれつきの性質という面があります。
 池田 しかし、われわれのような凡人でも、深い使命感と目的観をもち、大きな目標が設定されれば、はかりしれないほどの力量を発揮することができるものだ、と私は確信しています。
 ── 偉大な事業を達成した人の生涯には、「師との出会い」という、ある決定的瞬間が、大きな転機になっていることが多いようですが。
 池田 いま、思いつくだけでも、「ソクラテスとプラトン」「ベロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチ」「ベートーヴェンとシューベルト」、また「緒方洪庵と福沢諭吉」「コッホと北里柴三郎」などの例がありますね。たしかに、私の体験からもそう思います。
 屋嘉比 だれにでも、人生にあって深い影響をうけた人の存在というものはありますね。
 池田 いずれにしても、遺伝といい、環境といい、一人ひとりの個人にとっては、ある意味では、すべてあたえられている現実であり、結果であると、私は思いますが。
 より大事なことは、そこから、どのように自己開発していくかということでしょう。
 仏法では、これを「本因」ととらえています。
 屋嘉比 鋭い指摘と思います。医学は、現実や結果の解明に光をあてていきます。と同時に、だれもが、もっと根本的な問題があると感じてはいます。
 ── いま「生命」に関する最先端のテーマとして、新聞・雑誌・テレビなどのマスメディアで、大きな話題になっているのは、なんといっても「遺伝子工学と生命操作」の問題です。
 そのほか、盛んにとりあげられているテーマを、思いつくままに列挙してみますと、「脳戦争」とか、「老化」の問題、「死の判定」の問題、また人工受精や、臓器移植の問題などがあります。
 屋嘉比 寿命と加齢、そして高齢化社会における福祉の問題もありますね。また、植物人間や尊厳死の問題とか……。私の専門である医療と、深いかかわりがありますが。
 池田 たしかに、いずれも人類の未来にとって、重要で、深刻な問題ですね。また、古くして新しい問題として、生命の起源、生命そして人間とは何か、という問題も、あらためて活発に論じられていますね。
 屋嘉比 人間と自然環境の問題とか、心身症をはじめとする「心」の領域の問題もありますし……。
 ── 「健康ブーム」もつづいていますし……。(笑い)
 屋嘉比 「生命論」というのは、広げていけば、限りない広がりのあるテーマですね。
 池田 仏典では「諸法実相」(「法華経方便品」)と完璧にとらえている。
 また、さきほどの「総勘文抄」という御文には、「此の心の一法より国土世間も出来する事なり、一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆ことごとく一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」とも説かれています。
 せんじつめれば、森羅万象のことごとくが、「生命」の所作であり、営みであり、そのあらわれになるわけです。
 ですから、「生命論」の範疇は、限りなく豊かで、広い。また、奥行きの深い問題です。あらゆる問題は、人間・生命から出発しているわけですから、すべてが「生命論」の範疇に含まれてくることになる……。  (笑い)
 ── たいへんなことになりました。(笑い) ぜひ、そうした問題も、今後のテーマとして、お願いしたいと思います。
 池田 そうですね。期待にこたえることはむずかしいのですが、一緒に勉強しましょう。
9  医学と仏法の役割について
 ── 話は変わりますが、近代になって、生命のことを最も追究し、研究した学者はだれですか。
 池田 それぞれの立場で名をあげる人は異なると思いますが……。「生の哲学」のベルクソンはその一人でしょうね。どうでしょうか、屋嘉比さん。
 屋嘉比 ベルクソンですと、異論はないと思います。医学の底流には、常に思想、哲学が必要ですが、彼の著書『創造的進化』のなかで「知性は生命にたいする本性的な無理解を特徴とする」との指摘は、印象ぶかく残っています。
 ── 池田先生の『若き日の日記』を拝見しますと、ずいぶんベルクソンの著書を読まれていますね。
 池田 何冊か読みました。青春のころの読書は、忘れがたいものです。
 とくにベルクソンが「分析」から「直観」へと主張したことには、共感をおぼえました。
 いま、再び彼の『物質と記憶』や『道徳と宗教との二源泉』などが読まれはじめていると聞いていますが……。
 ── 小林秀雄さんなども最後に挑戦するテーマにしていたようですね。
 屋嘉比 ベルクソンは生命哲学の分野ばかりではなく、文学者にも関心をもたれたのですね。
 池田 そう思います。生命論の受けとめられ方などをみても、医学や文学や物理学など、専門がいかに異なっても帰着するところは同じだ、ということがわかります。
 専門は専門として、最終的にめざしていくところは、結局、「人間」と「生命」の問題になっていくことは必然といえます。
 こんど五千円札の肖像になった新渡戸(稲造)博士は、牧口(常三郎)初代会長と昵懇だったようです。博士は、日本人としてベルクソンと直接交際した数少ない人物の一人です。
 ── そういえば、牧口先生の『創価教育学体系』に序文を寄せていますね。
 池田 そうです。新渡戸博士は、フランスなどの長い滞欧生活からの帰国直後に書かれたようですね。
 ── その序文を見ますと、教育技術の追究に翻弄されている当時の教育界にあって、技術はあくまで従であって「堅実なる人を養成する」ことを重視する牧口先生の「人間教育」を絶賛しています。
 これなども、ベルクソンの生命哲学からの影響をうけた経緯もあってのことではないでしょうか。
 池田 そのように想像できますね。初代会長は、すぐれた教育者であり、人生地理学の大学者でした。ですから、当時の教育界の重鎮であった博士との交流は、必然的な出会いだったのでしょう。
 ただここで申しあげたいことは、当時の新渡戸博士は、人間から生命へというベルクソンの生命哲学にもふれ、より深く、ものごとをとらえる境地に立っていかれたのでしょう。そこできっと初代会長の『価値論』の内容を見て、博士が感動なされたような気が私にはするのです。
 そこで屋嘉比さん、医学の分野では、現在、大家といわれる人は、だれがいますか。
 屋嘉比 アメリカのライナス・ポーリング博士などの名前はよく耳にしますね。博士はすぐれた研究者であるとともに、平和運動の実践者でもあります。
 池田 ビタミンCの研究などで、ノーベル化学賞を受けた著名な学者ですね。また、ノーベル平和賞も受けている。
 ── その意味では、人類のためにたいへん貢献していますね。
 屋嘉比 博士の研究所には、いまでも三十三人のノーベル賞学者が研究に従事しています。
 池田 素晴らしいことだ。それから、イギリスの分子生物学の分野でしたか、ワトソン博士、クリック博士の名前も、新聞などで見かけることがありますが。
 屋嘉比 ええ、両博士は、今日の生命科学の基礎になる理論構築に貢献しています。とくに、DNA(デオキシリボ核酸)という遺伝子の構造を解明しました。科学が人間生命の神秘に足を踏みいれた、偉大なる業績と思います。両博士の研究書は、医学を志す者の教科書です。
 池田 あとはどういう人がいますか。
 屋嘉比 一九六三年にノーベル医学生理学賞を受けたオーストラリア生まれのエックルス博士も大事な人です。
 池田 脳を研究している方ですね。
 屋嘉比 ええ、大脳生理学の大家で、たしか東大の生理学教授も師事されたことがあり、私たちもいわば孫弟子にあたるわけです。博士は、最近、一般向けの『脳と宇宙への冒険』(鈴木二郎訳、海鳴社)という本を書かれています。
 その本のなかで博士は宇宙と地球、人類の歴史にふれ、結論として人間の脳を理解するのに「脳を超えた自我意識精神」を想定されています。
 ── より深く広い次元からの、ものの見方が要求されるわけですね。
 ところで、脳のシワの多い少ないで頭のよさが決まると、よく聞きますが。(笑い)
 屋嘉比 それだけで頭のよさが決まるというのは、もし神が人間をつくったというのであれば、あまりにも残酷な話です(笑い)。人間の頭脳のよさが、シワとか脳の大きさとかで決まるというのは、あくまで俗説ですね。(笑い)
 もし、それが正しいとすると、人間の六倍もの脳の重さのあるマッコウクジラや、人間より脳のシワの多いイルカのほうが、人間よりずっと賢いということになってしまいます(笑い)。だいたい人間は、自分の脳細胞をすべて使いきっているわけではありませんから、やはりシワの数ではなく、努力の量によって決まるのではないでしょうか。
 池田 ともかく、私たちは、現実に生きている、生まれてきてしまったことだけは間違いない。そして生まれながらにして、貧しい家に、富める家に、賢く、愚かに等々、あまりにも差別の境遇にはめこまれた運命にある。
 その淵源はどこにあるのか、という問題を、厳しき因果のうえから説き明かしたのが仏法です。
 「心地観経」という仏典には、「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」とあります。
 これは、仏法では、たんに「今世」だけの生命現象の「因果」をあつかうのではない。あくまで、「過去・現在・未来」という「三世」にわたる永遠の生命観にたって、すべての現実、現象を掘りさげてとらえ、そこに、仏法は、人間の運命と宿業の淵源をみていく、という意味になります。また、それをいかにして打開していくか、という法則を提示しているわけです。
 屋嘉比 現象面を主に追究する医学からみますと、たいへんな深い次元からの道理となるわけですね。
 池田 ですから、人間が医学から多大な恩恵をこうむってきたこと、また未来もそうであることは揺るぎない事実ですが、医学は、いわば生命の現象面の近因の探究と治療が目的であるといえる。それに対し、仏法は淵源の追究、そして未来の追究であるといえる。
 屋嘉比 医学の研究者としては、人間と医学を考えるうえでの大切な示唆を感じます。
 池田 大聖人の因果倶時の法門は、さらに、もう一歩深いのですが……。
 これは、また、なにかの機会に論じさせていただきたい。
 ともあれ、医学は健康の追究であり、仏法は何のために生まれてきたかの追究であり、この人生を最高に価値あらしめる生活の歩みです。
 その意義から、大聖人の仏法では、それを「衆生所遊楽」ととらえている。この地球上に生を享け、楽しみきって人生を終わることこそが、私たちの信仰の目的なのです。なかなか凡人ではたいへんなことですが。(大笑い)

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