Nichiren・Ikeda
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第六章 仏法と宇宙と人生と②…
「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)
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10 「慧眼」とは法則を見いだす英知の眼
木口 そうですか。よくわかります。昔の人が、肉眼では見えないものを見るための道具を、天眼鏡と称したのも、ピッタリだと思います。
しかし、望遠鏡でいくら宇宙の現象世界をさぐりだしても、その真理を、いまだ究めたとはいえません。
―― 「天眼」で人一倍ものが見えても、それをどう判断するかという智慧ですね。
池田 そうです。そこで、「慧眼」とは、事物、事象を深く洞察し、正しく判断して、法則を見いだしていく英知の眼ということになります。
木口 たとえば、さきほども話題になりましたが、ケプラーは、独自の望遠鏡を考案しました。ところが、本人は弱視で、天体観察をしない天文学者といわれました。
池田 そうですね。なにかで読んだことがありますね……。
ケプラーは、自分の師匠が生涯をかけてつくりあげたデータを、そっくり受け継ぎ、紙とペンだけで「ケプラーの法則」を導き出すのに見事に成功した、といわれていますが。
木口 そのとおりです。ニュートンも、その法則から「万有引力の法則」を発見しました。
池田 みな、仏法で説く「慧眼」の持ち主とみることができます。
―― たしかに「慧眼」の認識が、文明の進歩に寄与したことは事実ですが、その認識が、そのまま人類の幸福に、すべてつながっていくとはかぎらないわけですね。
池田 どうしても、「慧眼」だけでは、大きな価値の自覚や、生き生きとした英知になることはむずかしいといっていいでしょう。
木口 そのとおりだと思います。
たとえば、宇宙の力が原子力だ、とわかっても、それが最初に利用されたのは、戦争のためでした。そしていま、世界中が核兵器漬けになっているほどです。
11 「仏眼」とは究極的な悟りの境界
池田 そこで「法眼」「仏眼」が、大事になってくるのです。
―― 「法眼」とは、どのように説かれているのでしょうか──。
池田 ひとことで言えば、「菩薩の眼」ということになりましょうか──。
人々を、あくまでも済度していくという、仏法の立場、その次元から、一切を見抜き、行動していくということです。またすべての行動の規範にあって、あくまでも、生命の尊厳観をもっていること。
とともに、内なる生命の世界にあっては、常に生き生きと、楽しく、くずれざる幸福の大海を遊戯していくような自身を確立していく英知の眼ということになるでしょうか。また少々抽象的な表現になりますが、外にあっては、絶対平和主義の行動。
木口 その究極的な境界として「仏眼」が、あるわけですか。
池田 そう言ってもよいでしょう。
端的にいえば、仏眼とは「宇宙即我」、「我即宇宙」と覚知する境地です。「法華経」の「寿量品」には、「如来如実知見。三界之相。無有生死」と説かれています。
―― この「寿量品」の意味は、どのようになるのでしょうか。
池田 そうですね――。
まず通途の仏法では、「如来」つまり「仏」という、清浄で、力強く、なにものにも左右されない大人格が、すぐれた直観智で、宇宙および森羅万象の究極の法を「一切皆是仏法」すなわち「妙法」と覚知するのを「仏の眼」ということになります。
木口 普通、「悟り」といわれる心的過程の最高レベルのことと、とらえることができますね。
池田 結論としていえばいえるでしょう。
釈迦仏法では、その境地へ、出世間、脱世俗の立場、つまり、わかりやすく言いますと、実社会を離れて、長い仏道修行と実践によって初めて到達することができるわけです。
だが日蓮大聖人の仏法では、すべての衆生に、もともと仏眼をはじめ五眼が具することを明示しています。その覚知は、妙法の信によって獲得されるわけです。
それを、「直達正観」「受持即観心」と説くわけですが……。
―― すると「如実に、三界の相を知見す」とは、どのような意味になるのでしょうか。
池田 仏法で「三界」とは「欲界」「色界」「無色界」のこと、つまりこの現実の世界のことです。「三界の相」とは、この悩み多き迷いの世界の姿のことです。
その「生老病死」の四苦や「成住壊空」の四劫、「生住異滅」の四相という、有為転変の無常、変化、仮有のこの世界を貫き支え、かくあらしめている大法を覚知するのが「仏眼」といっていいでしょう。
つまり仏の眼は、そうした社会的に揺れ動いたり、避けがたい変化相の中に、本有常住の大法則、すなわち妙法を見、そして常に、全社会、全世界、全宇宙の実相の深理の中に寂光の確たるリズムの世界を見通している、ということになるでしょう。
木口 たいへんに深い哲理を感じますが、さらに、「寿量品」の「生死有ること無し」(無有生死)とは、どういう意味でしょうか。
池田 これは、仏法の生命論の極説であり、仏法の宇宙観の核心になります。
簡潔に言えば、全宇宙の法則をつまびらかにし、わきまえることによって、「生死有ること無し」すなわち、人間の根本問題である「生死」の理を超越した、永遠不滅の生命の当体を覚知した悠然たる境地に立つということです。
木口 なるほど、いちだんと仏法からみた生命観に対して、理解を深めることができたような気持ちがします。そうしますと、どこまでも真実の仏法は、現実に「生きる」なかにある、「動」の社会の現実のなかにある、自分の身近な生活のなかにあると、とらえてよいわけですね。そして、そのなかにあってこそ「法眼」「仏眼」を発揮し、薫発させることができるわけですか。
池田 そのとおりです。
そこで、御文にも「此の五眼は法華経より出生せさせ給う」と説かれています。
ですから「妙法」を受持し、信行し、人間革命しゆくところに、おのずから「平和」「幸福」「よき社会」「よき生活」が具現し、また「眼」と「智」と「光」が開覚され、顕示されていくということになるでしょう。
木口 わかるような気がします。すばらしい仏法の法理であると感銘します。われわれ天文学者の眼は、「天眼」の域を出ていないわけですね。(笑い)