Nichiren・Ikeda
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第四章 宇宙にE・Tは存在す…
「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)
前後
2 仏法で説く宇宙のスケール
―― そこで、初めにこの宇宙と生命について、仏法はどうとらえているのか、この点について、名誉会長からお話しいただければと思います。
池田 そうですね。
このテーマは、仏法の生命観、宇宙観からいっても、非常に重要になってくるところです。
仏法は、これまで論究してきましたように、この地球だけを対象にしているのではない。また、有限としてとらえうる宇宙を想定し、説かれたものでもない。
要するに、無限大に広がりゆく全宇宙――。そのなかを、一貫して、貫きとおしている無限なる生命の法。すなわち、全宇宙に実在する一礫一塵までも、あらゆる次元から、あらゆる角度から説き明かしているのが、大乗仏教そのものなのです。
―― なるほど。
池田 その説かれている宇宙のスケールについて、一つの例を挙げてみますと……。「仁王経」には「吾が今化する所の百億の須弥・百億の日月。一一の須弥に四天下有り……」とある。
百億の日月という表現は、無限大の広がりが前提とされていることを重視しなければならないと思いますが。
さらに、「未来星宿劫千仏名経」という経典などには、宇宙的な時間、空間をも志向しています。
木口 「四天下」とは、人間のような知的生物の住む世界と考えてよいでしょうか。
池田 そうでしょうね。
天文学の立場からも、地球のような文明をもった惑星、あるいは、もっと高度な文明に達した惑星が、われわれの太陽系が属する天の川銀河だけでも、過去・未来を含めると一千万個に達するのではないかと推定されている、との話でしたが。
木口 ええ。アメリカの天文学者ドレイクが提唱し、カール・セーガンの著書『COSMOS』(前出)で有名になった方程式がありますが、その計算でもたいへんな数になります。
3 キリスト教と仏法の教義の違い
池田 ところで、第五十九世日亨上人は、類まれなる仏法の大学匠であられた。私も、戸田先生のあとについて、何回となく、お目通りした一人でありますが……。
あるとき、いわゆる仏法の「五時八教」の布教の次第の段に入ったときに、「この地球上においても、蔵、通、別、円、そして所詮は、南無妙法蓮華経の流れとなる。それを打ち立てたあとは、また同じように、他の星の世界においても、その同じ布教の次第がなされるのではないか」――というようなお話があったことを、興味ぶかく、鮮明に覚えております。
―― インド応誕の釈尊の説いた「蔵教」「通教」「別教」「円教」そして、末法に入り、文底下種の「南無妙法蓮華経」という次第の姿が、他の星でも時間と空間を超え、地球と同じようにあらわれるということですね。
池田 そうです。
戸田先生も、昭和二十年代に、青年たちを対象とした総会での講演のなかで、同じようなことを言われたことを覚えています。
それは、当時としては、私たちの想像の範疇を超えたものであり、ユーモアとしかとれませんでしたが。
つまり、「この地球上において、釈迦仏法が終わり、大聖人の仏法が厳然と確立された。また現在、私は、広宣流布への流通の道を開いた。あとは、諸君たちに、一切まかせる。自分は、他の天体に行って、同じように、妙法流布の仕事をしなければならないから」という意味の講演でした。
木口 なるほど。仏教というと、延暦寺、東大寺、高野山、身延山などの建物からの印象だけで、なにか時代遅れの、そして社会から遊離した教えというとらえ方をされがちですが、真実の仏法の法理が、宇宙までも包んでいるとは、たいへん驚きであり、興味があることですね。
―― さきほどの「百億の日月」には、文字どおり、われわれの太陽系のワクを超えた、広大な宇宙観の意味がそなわっているように感じます。
池田 そのとおりです。
木口 池田先生は、仏法の視点をわかりやすく説明してくださいましたけれど、科学が、この仏法の宇宙観の一部、つまり無数の太陽系が存在する銀河系というレベルに到達したのは、ようやく二十世紀に入ってからです。
池田 なるほど……。そうですか……。
ガリレオが、地球は太陽の周りを回る一つの惑星にすぎない、と主張してから、まだ三百五十年しかたっていませんね。
―― このまえ、新聞に出ていましたが、ローマ法王が、ようやくガリレオ裁判の誤りについて自己批判(一九八三年三月八日)しておりましたが。(笑い)
木口 そうですね。まあ、キリスト教の教義と仏法の深遠な教義の違いが、ここでもわかるような気がします。
ガリレオは、自分でつくった望遠鏡で、天の川は無数の星の集団だ、ということまでは観測していました。
しかし、太陽系のようなものが他にも無数に存在することまでは、気がついていなかったと思いますが……。
4 地球は四十五億人を乗せた“船”
―― 現在、明らかになっている銀河系の原型が考えられるようになるまででも、天文学は、長い時間をかけて試行錯誤してきたようですね。
木口 ええ。そのなかでも、簡単に説明しますと、二つの転機が主なものです。
一つは十八世紀から十九世紀にかけて、イギリスの天文学者、ウイリアム・ハーシェルが、自分の妹や息子の天文学者と一緒に、望遠鏡で太陽系よりはるか遠方にある星や星雲を観測し、銀河系の構造を解明する手がかりをつくったことです。
もう一つは、アメリカの天文学者、ハッブルの功績です。
―― 膨張宇宙論の計算の基礎になっている「ハッブル定数」の発見者ですね。
木口 ええ。ハッブルは、銀河系外の星雲を観測し、宇宙全体に占める銀河の大きさを確かめました。
いまから、わずか五十年ほど前です。ハッブルによって、その後、天文学は長足の進歩を示すことができたと思います。
―― こうした銀河系宇宙の解明がしだいに進むにつれ、宇宙の性質やその法則性、あるいは物質の密度が明らかになり、この大宇宙のなかで、人類だけが唯一の知的生物であるのかどうかというナゾが、大テーマになっていくのは、必然的なものだったのではないでしょうか。
池田 そう思います。
宇宙人はいるか、いないか――という問題は、人間が想像できる最も基本的で、かつ深遠な関心事ですね。
「かぐや姫」や「月とうさぎ」の昔話は、幾世代にもわたって語り継がれてきたメルヘンの世界です。
やはりいつの時代も、人間の宇宙へのあこがれには強いものがあったのですね。
木口 その意味では、天文学は人間のとどまることのない探究心を象徴しています。
池田 地球は、太陽を回る四十五億人の乗客を乗せた地球船のようなものである、という考え方も、宇宙的な展望が広がってきたことによって、初めて認識されるようになったことですね。
―― これは、人類にとってたいへん重要な認識です。
木口 そのとおりです。
―― さらにさらに、この思想を昇華していく以外に人類の将来はなくなってくる。とともに、仏法思想がいかに重要であるかを、しだいに世の指導者、識者たちが探究せざるをえなくなってくるでしょう。
「仏典は敗者のモノである」なんて言う人がいますが、とんでもないメチャクチャな論理ですね。(爆笑)
5 生物存在の可能性について
木口 仏法で説く「三千大千世界」という言葉などは壮大なスケールですね。
池田 「五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界」と、「法華経」の「寿量品」に説かれています。
つまり、私ども人間が、思議することがおよばない広大な宇宙観ですね。
たとえば、「那由佗」は、さまざまな説がありますが、現在の数で一千億にあたるともいわれています。「阿僧祇」はの五十一乗になるという計算法もあるようですが、数えきれないほどの、きわめて大きな数をいいます。
―― そこで、現在の天文学者や宇宙生物学者は、地球外の「知的生物」の存在について、さまざまな根拠にもとづいて、いろいろな想定や探査を行っていますが。
木口 ええ。一九五九年に、宇宙人との交信計画を主張したアメリカの学者は、「成功の確率をおしはかることは困難である。しかし、なにもしないで成功することはありえないのだ」という、強い信念にたっていました。
池田 なるほど、先駆者の心構えですね。
木口 そう思います。
地球外生物の探査は、一九六〇年の、アメリカ国立電波天文台が行った「オズマ計画」が、世界で最初の実施でした。
―― その後、何回ぐらい行われていますか。
木口 ソ連でも行っていますから、主な計画だけでも六、七回でしょうか。アメリカの米航空宇宙局(NASA)が支援する「サイクロプス計画」は、数兆円の予算もついた本格的なものといわれていました。
池田 探査計画の考え方は、だいたい共通していますか。
木口 ええ、そのようです。簡単に言いますと、太陽のような恒星を探し、そこに地球に似た条件の惑星を考えます。
―― われわれの銀河系の範囲では、どのくらいの惑星数が、天文学者の間で想定されているのですか。
木口 いろいろありますが、アメリカの、オハイオ州ウエスリアン天文台のジョン・クラウス所長の見解などは、考え方としては平均的なものです。
池田 ここで、具体的に、その見解を紹介してもらえますか。
木口 はい。
クラウス所長の説明は、たいへんわかりやすいものです。
「太陽は銀河系を構成する千億個の星の一つにすぎず、また銀河系星雲は宇宙に存在する千億個の星雲の中の一つにすぎない。地球のような惑星を持つ星が存在するチャンスは百万分の一にすぎないと仮定しても、銀河系の中で惑星を持つ星の数は十万個になる。天文学者はこれ以上星があると考えているので、生命が存在する可能性は大きい」(『巨大な耳』鴻巣巳之助訳、CQ出版社刊)
このような見解です。
6 銀河系には無数の文明社会が
池田 この銀河系だけでも、一千億の太陽のような恒星、そこにたくさんの惑星が回っている。
宇宙全体では数えることができない。その大部分に生物はいない。だが、太陽に対する地球のような条件の惑星には、生命体を構成する可能性があるという説も聞きましたが、木口さんどうでしょうか。
木口 現段階においては、最も標準的な見解といえると思います。
―― 計算する方程式によって、数値がいろいろ出てくるのではないかと思いますが、さきほど、木口さんが言われたドレイク博士の方程式は、どのようになっていますか。
木口 細かい計算は省略しますが、
N=R・fp・ne・fl・fi・fc・L
これがドレイク博士の方程式です。
池田 計算はたいへんでしょうから(笑い)、記号だけでも説明してくれませんか。
木口 はい。
「N」 は銀河系内の文明の数を示します。
「R」 は銀河系内に単位時間あたり恒星がいくつ生まれるかをあらわします。
「fp」はその恒星が、惑星系をもつ割合。
「ne」はその惑星系のなかで、生命を宿すのに適した惑星の数です。
「fl」は惑星系で生命の発生する割合。
「fi」はそこから知的生物が進化してくる割合。
「fc」は知的生物が、地球などと星間通信を志すほどの技術文明を発展させる割合。
「L」 はそのような文明社会の寿命です。
池田 そうしますと、たいへん詳細な確率を各項にあてはめなければなりませんね。
木口 そうです。ドレイク博士の方程式は、この確率をなんとか評価しようではないかという意見を表明しているのです。現在、比較的確かな推量ができる項目もありますが、将来の科学の進歩を待つほかはない項目が大半です。
―― 絶対的な答えは、まだ出ないということですね。
木口 ええ。科学の総合的な発達が必要だと思います。
池田 この方程式にもとづいて、いちおうの見当をつけた科学者はおりますか。
木口 いろいろな方が自分の専門分野の知見にもとづいて、推測しています。日本では、生化学を研究しておられる大島泰郎博士の推測が、『生命の誕生』(講談社刊)などのなかで述べられており、一般的によく知られています。
博士は、私たちの銀河系には、文明社会が一千万個も存在することになると言っています。
ただ生物学的に考えますと、一つの種が存続するのは、おおよそ一千万年ぐらいといわれていますので、仮に人類の存続もこの年限であると考えます。
そうしますと、現在の地球人類の歴史の存続している間に、同時に存在している可能性のある銀河系内の文明の数「N」は、十万個ほどになるというものです。
7 「知的生物」発見の可能性は
―― ところで、アメリカのランドコーポレーションという民間研究機関では、十四年ほど前に「あと三十年以内に、人類は地球外の生物と、双方でコミュニケーションするであろう」と発表しています。具体的には、どのように探査するのですか。
木口 他の星からの特殊な電波を受信しようとしています。関係者が最も注目しているのは、地球よりはるかに文明が進歩している、と考えられる星の存在の可能性です。
池田 そうですね。
仮に地球の年齢が四十五億年としても、地球よりその一パーセントでも早く生まれている星では、文明が四千五百万年も早く進歩していることもありえますね。
木口 そのとおりです。したがって、そうした星では、すでに電波信号を使って星間通信をすることができるほどに、文明が発達しているということも考えられます。
―― 十数年前、宇宙からのモールス信号をキャッチしたという話があり、大騒ぎしたことがありましたね。
木口 ええ、ケンブリッジ大学の天文学専攻の女子学生が、偶然に発見したものです。一部の天文学者は当初、他の天体の知的生物が、地球にメッセージを送っているのかもしれないと、考えたようです。
その星は“LGM”(リトル・グリーン・メン=小さな緑の人々)と名づけられましたが、残念ながら、まもなくこれは、パルサーという磁石となった小さくて重い星が回転するときにでる信号であると、結論づけられました。
―― そうですか。
木口 科学者は、一切の偏見をまじえず、先入観ももたず、厳密な計算と研究によって、この問題と真剣に取り組んでいます。
池田 大事なことですね。
木口 とくに、この業績によって女子学生の先生、ヒューウィッシュはノーベル賞を受けております。
―― さきほど、太陽のような恒星を探すことから始めているということでしたが。
木口 ええ。恒星からやってきた光をプリズムに通したときできる輝線や吸収線によって、その星の温度と、おおよその年齢がわかります。
池田 太陽のような恒星を、どうして見つけるのですか。
木口 「スペクトラム型」という分類法を用います。
―― わかりやすく言いますと……。
木口 この方法で、星を分類しますと、巨大な熱い星は、青色となります。
それより小さく温度の低い星は、赤色になります。
池田 太陽は何色ですか。
木口 O型からS型までの十段階に分けますが、ちょうど真ん中で黄色です。
この黄色の恒星に、太陽系のような、知的生物がいる惑星があると想像されるわけです。
―― いま太陽クラスの星で、最も地球から近い距離にあるのは、どのくらいですか。
木口 約四光年から十光年のところです。
池田 そうしますと、仮に、その太陽系の星の電波を地球でキャッチしても、十年前に発せられたものということになりますね。
木口 ええ、それが問題なのです。一つは電波望遠鏡を正しい方向に向けなければなりません。
また無限にある波長のなかから、通信に使うことのできる、ただ一つの波長に正しく合わせなければなりません。しかも、その星のアンテナが、見える時期と見えない時期がある。
池田 つまり、お互いに自転、公転がある。
木口 そうです。
一年間、寸刻も休むことなく観測していなければなりません。
―― 先日(一九八三年三月八日)のニュースによりますと、宇宙から発信された電波かどうかを、一分間で分析できる電波望遠鏡が、アメリカで始動したそうですね。
木口 それは言語学にとって、たいへんな進歩ですね。
といいますのは、私たちは信号(言葉)と意味の間の関係について、ほとんど何も知らないからです。しかし、アメリカでは計算機との関係で、記号の意味論が非常に発達していますからできたのでしょう。
しかし望遠鏡が動きだしたとしても、知的生物を見つける確率は、非常に低く、現段階では、そうした星の発見はむずかしい状況です。ただ多くの天文学者は、こうした惑星があると考えたほうが妥当だと思っています。
8 われわれの身体は星でできている
池田 十一年前ですか、太陽系の外に向かって打ち上げたロケットがありましたね。順調に飛んでいますか。
木口 ええ。パイオニア号(無人宇宙探査機)です。さきごろ、やっと海王星の軌道を通過したことが確認されました。そのまま太陽系外宇宙へ飛び出していきます。
―― 米航空宇宙局は、あと何年ぐらい、このロケットからの信号をキャッチできそうですか。
木口 積んでいる原子力電池は、三十五、六年の寿命があるといわれています。
池田 そうしますと、人間がまだ知らない宇宙の情報を送ってくることも考えられますね。
木口 とにかく、人間がつくりあげた装置が、初めて太陽系外を探査するわけですから、われわれも期待しています。
―― このロケットには、地球外知的生物に読まれることを考えて“宇宙語”をのせていましたね。
木口 ええ、セーガン博士などが考えたもので、地球の実情を知らせる宇宙人へのメッセージです。
池田 地球の側から送った信号も、いろいろあるそうですが、宇宙からの返事は届きそうですか。(笑い)
木口 むずかしいようです。他の星はあまりにも遠く、いくらウナ電にしても返事がつくまで数十年、たぶん百年以上はかかるでしょうから……。しかし、「記号」や「画像」や「数字」を組み合わせて、もし相手に“知性”があれば、理解できるだろうと考えて、一生懸命研究しています。
―― 「地球はとりたてて特別な天体というわけではない。人間はこの宇宙のなかで孤独ではないと考えることは、十分道理に合ったことである」という学者もいますね。
木口 そうです。
宇宙原理といって科学者は、宇宙のいかなる場所でも、物理と化学の法則は同じように適用されると考えています。
池田 あらゆる生命は、約二十個の基本的分子からつくられますから、地球外生物も、確率は別として同じ生命因子によってつくられる……。
木口 「われわれの身体は星でできている」というのは天文学者の常識です。
―― 要するに、われわれはすべて星でつくられた因子から成り立っている……。
木口 そのとおりです。生命体を形成するため、最も重要な元素は炭素です。いろいろ調べられたのですが、どうもケイ素や錫では、生命を育むだけの多様な化学物質をつくれそうにありません。
ところが、星のなかで、この炭素のみが非常にうまくできるのです。なぜ、これほどうまくできるのか、まったく不思議なのです。
9 六根清浄は宇宙人の条件
―― ところで、さきほどお話のでたアメリカのクラウス博士は、この宇宙との交信計画にも関係しているようですが、地球よりも歴史が古く、文明も高度に進歩している星が、仮に数十万年、数百万年も、そうした文明を維持していくには、その文明人が慈悲ぶかく、円満になっていなければならない、と述べています。
池田 なるほど。そうですか。
そうすると、仏法でいう一人一人が信仰をもち、その星が、完全に慈悲に包まれて広宣流布の完成をみた――ということになるでしょうか。
―― フランスのヤングハズバンド卿の『星の生活』という本のなかでは、宇宙の住民たちは、「天使のような性情」をもった高度の生物としてえがかれています。
木口 多くの科学者の共通する考え方でしょうね。
池田 仏法の「六根清浄」ですね。
―― 「六根」とは、眼、耳、鼻、舌、身の五根と意根ですね。
池田 そうです。
「六根清浄」というと、なにか山に閉じこもり煩悩を断じる修行のように思われますが、そうではありません。
真実の「六根清浄」とは、妙法を唱え、妙法と合致しゆくことです。ひとことで言えば、生命の浄化ということになりましょうか。
―― なるほど。
科学、技術の進歩とともに、人間性というものにも、もっと光が当てられなければなりませんね。
木口 高度な文明をもち、維持しているであろう地球外知的生物は、簡単に言えば、立派な人格者になっていると考えられますね。もしそうでなく、エゴと傲慢のかたまりでは、文明を自らの手で破滅させてしまいますから。
10 科学と宗教の接点
―― 最近、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』という雑誌に、アインシュタインの再来といわれているホーキング博士の単独インタビューの記事が載っておりました。
博士は、「すべての法則は、その一段上の法則から導き出されてくる。だから、われわれがめざしているのは、そこから他の法則を導きだすような、より普遍的な原理が存在するかどうかを探究することなのだ」と言っております。これは、宇宙のナゾへ挑戦する科学者の一歩前進した視点ではないでしょうか。
木口 そうですね。現在の天文学では、ビッグバン以前の宇宙は解明されていません。博士は、ビッグバンも、それをひきおこしたのは何か――ということを思索しています。
池田 「そこから他の法則を導きだすような、より普遍的な原理」とは何かを、鋭く示唆しているようですね。
「無量義とは一法より生ず」と仏法では説いています。この一法とは、せんずるところ、南無妙法蓮華経になります。
―― なるほど。博士は、不治の病によって、日ごとに衰弱するハンデを負いながら、ニュートンが就任していたケンブリッジ大学の「ルカス教授職」のポストについています。
木口 天才の名をほしいままにしていますね。
池田 病み衰えながらも、一つの真理を追究していく姿は、まことに尊いものがありますね。
―― 私は、以前フランスのジャック・モノー博士(当時パスツール研究所所長、分子生物学者)にインタビューしたことがあります。ちょうど、博士がノーベル賞を受けてまもなくのことでした。
そのとき、書斎の壁に、密教の仏画が掛かっていましたので、博士がなぜ仏教に関心をもつようになったかを聞きました。
以前にも話題になりましたように、生命の解明が、いかに困難なことか、モノー博士によると、たとえ専門の分子生物学で、材料と部分をぜんぶそろえても、生命をつくりだすタンパク質一個でさえ、超天文学的な数で、順序を組み合わせなければ生まれる確率は少ないそうです。
木口 生命の神秘な現実と科学の落差に、科学者はたいてい敬虔さ、不可思議さにうたれ、ぬかずく思いになります。
池田 仏法では「本地難思」ですね。仏の「本地」とは、すなわち「南無妙法蓮華経」です。「南無妙法蓮華経」とは、あらゆる生命の働きを生じ支えている究極の法であり、それは不可思議の法であるということです。
―― さらに博士は、宇宙において地球が、いかに恵まれたところにあるかについても「科学は、物事の“成り立ち”は説明できるが、それが“なぜ”起こり、“なぜ”そうなっているのかは説明できない。それを行おうとすれば、科学は客観性の公準に別れを告げなければならない」と述べています。
博士は、キリスト教に、いくらその説明を求めても、科学の「客観性の公準」と、ますます距離ができる一方だというのです。
木口 科学の歴史からみても、モノー博士の考え方は、ひとつの転回点だったようです。
博士自身は、科学に価値を持ち込んではいけないと強調しましたが、科学に価値を、そして宗教を持ち込もうという現在の流れをつくりだしたのは博士ですから……。
いつでしたか『大白蓮華』(一九七三年二月号)に載ったそのインタビューでは、仏教には科学にはない価値と倫理の思想がある、という趣旨の発言をしていましたね。
「人間のための人間の宗教」への期待でしたか。私もかつて、それを読んで、科学の未来のために心強く思いました。
11 科学の歴史は迷信と妖術との戦い
池田 博士が所長をしていたパスツール研究所は、キリスト教神学との激しい戦いに勝って、成立したものと聞いていますが。
キリスト教がゴリ押しする「生命の自然発生説」を打ち破り、近代医学の出発を遂げたという話でしたね。
―― そのとおりです。
池田 密教の仏画などを掛けていたのは、まだ、本当の仏法を知る機会がなかったのだと思いますが。アーノルド・トインビー博士も、同じような思考をされていましたね。
仏法には「与奪の法門」というのがあります。「与えていえば」「奪っていえば」という論理です。
ですから、与えていえば、博士はキリスト教との比較を考えながら、仏法の法則の公準を察知されていたのでしょうね。
木口 仏法のなかで、密教とは、どういう宗教なのですか。
池田 簡単に言いますと、仏法を大別すると「権教」と「実教」があります。
その「権教」、つまり、仮の教えのなかで、仏は、「法」「報」「応」の三身の中の一つである「法身」のみを説いているといえましょう。
「実教」は、「法」「報」「応」の三身がそろい、「法身」「般若」「解脱」の三徳とあらわれるのです。
ですから、「法身」だけという密教は、完全なる仏教とはいえないのです。
―― 十九世紀の化学者パスツールと同時代に生きた文豪トルストイも、キリスト教の実態について書き残しています。
池田 そうですね。トルストイといえば、私も青春のころたいへんに好きな作家の一人でした。「光あるうちに光の中を歩め」とか、「不幸とは悔恨を残すことなり」などという文章は忘れがたい。
ともかく、キリスト教の本質を突いた痛烈な文章が、いくつもありますね。
―― ええ、そのなかの一つに、「教会の教義は……有害な虚言であり、実践的には、卑俗な迷信と、妖術の混り合い」(『司教会議への回答』)というのがあります。
木口 「迷信」と「妖術」ですか……。この言葉との戦いが、科学の歴史でした。いまでも、科学者が最も嫌悪する言葉です。
池田 それは、十分理解できます。
―― パスツールは研究所ができたとき、「この研究所から、神を追放しなければならない」という、有名な宣言をしていますね。
池田 なるほど。その一言に、厳しく象徴されていますね。西欧の知的先駆者たちは、なにか仏法へ……。仏法への探究の道を光線のごとく照らしている感じが多いですね。
その一人であるモノー博士も、やはり、そうだったのでしょう。
木口 禅などが、仏法の代名詞みたいになっていますが……。
―― すると、ほんの妙法に入る門の前みたいなことになりますね。(笑い)
池田 そのとおりです。
モノー博士は、たしか亡くなりましたね。
―― 七年ほど前亡くなられました。
池田 トインビー博士は、時代の急速な進歩によって、「試練を受ける宗教」という言葉を使っている。文明の進化とともに、脱落しゆく宗教、それに対して永遠性と普遍性を帯びた、いつの時代にあっても、一貫して光彩を放ちゆく躍動の宗教――これこそ私は、最高峰の仏教であると確信しておりますが……。
―― モノー博士は、思想であれ、哲学であれ、ある種の淘汰の原理があると主張されていました。同じ原理となりますか。
池田 万有流転の法則ですね。
―― まあキリスト教も、長年の間、大迫害をうけながら、ひとつのキリスト教文明を残し、今日にいたったことは事実ですが。
池田 無数の殉教者がいたことでしょう。それを思うと、私どもは、まだまだ楽なほうです。時代も違いますが……。
木口 そうですね。キリスト教に対する反発から、科学が進歩したともいえます。また多くの科学者がキリスト教にしばられなかったら、もっと早く、暗黒時代から開化文明の時代に入っていったでしょう。天文学なんかは、もっともっと早く、宇宙を照らしていたでしょう。
十九世紀までつづいたキリスト教の教義の束縛や、観念論や唯物論の束縛から科学者が抜けだしたのは、つい最近のことなのです。
十九世紀の科学者、たとえばドイツの物理学者キルヒホッフの文章などを読んでみますと、観念論や唯物論から科学を守ろうと身を縮めているのがわかり、現在の自分の幸せをつくづく感じます。
池田 人間の「業」といいましょうか。宗教は偉大であるとともに、ときには、たいへんな取り返しのつかない「害」や、「暗」になってしまうのも事実です。
―― また途中から、キリスト教は国家権力と結びついて……。いや国家権力まで動かす立場となり、布教の力、支配の力が増長されたといっても過言ではありませんね。
池田 そのとおりです。
やっと信教の自由、布教の自由が、日本でも世界でも許されるようになったわけです。それでも無認識の圧迫、中傷批判が数かぎりなくありますが、これは、真実の信仰者の宿命ともいえるでしょう。
それを乗り越えて布教することが、真実の信仰者の栄光を最も永遠たらしめることでしょう。
12 ますます深まる仏法への志向
―― キリスト教の国をバックにした布教、日本でも宗派は違いますが、そういう時代がありました。真の仏法の布教法が説かれている経典には、どんなものがありますか。
池田 そうですね。
たとえば、大乗経典である勝鬘経(十受章第二)には「仏法の話をするときは、摂受すべき人には摂受をもって行い、折伏すべき人であれば折伏せよ」と。
また、「法華経」の結経である「普賢経」という経典には、「折伏しようとするならば、大乗の教えをもってしなければならない」とあります。
また、中国の天台大師智顗が、仏法の真髄を全十巻にわたって究明した「法華玄義」には、「法華は折伏にして、権門の理を破す」という淘汰論を展開しております。
私どもは、そのとおり法門にもとづいてやっております。
―― 「折伏」を皮相的にとりますと、いかにも不寛容であるという見方が強いようですが。
池田 よくいわれますが、「折伏」とは、私どもがつくった言葉ではない。
釈尊が、また日蓮大聖人が仰せになった言葉であり、仏法者全体に言われた言葉なのです。それを、そのまま、正しく、本義に照らして叫び、行動しているのです。
「折伏」とは悪心を折り、善の心に伏せしめていくということです。低級な宗教、信仰では、生活的にも、文明、社会的にも、また生きる意義からも、弱者になってしまう。そこで低きをより高く、浅きをより深く――の仏法信仰によっての最高の人生、最高の人格、最高の社会観、世界観、宇宙観をもつべきであるという慈悲のうえからの論理なのです。つまり、最大の寛容に通ずるわけです。
木口 なるほどよくわかります。
―― よく釈尊の仏法は母の慈愛、末法における妙法の行動は、父の厳愛といわれていますね。
池田 そうです。ますます乱れ、ますます濁りきった世相をみたときに、弱々しい偽り親しんでいくような布教方途では、ずる賢くなった人々の心をうてない。
やはり確信に満ちた、八万法蔵の裏づけをもった極理である正法の布教にあたっては、強く、激しいようにみえるが、この方途しか末法の時代の救済方式は、ないのではないでしょうか。
木口 なるほど。
池田 学校の先生も、父親も、宗教家も、政治家もみんな尊敬されなくなってしまっている時代です。「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」という御文があります。
木口 そうですね。小学校や中学、高校でも、弱々しい教師が暴力をうけていると、なにかに書いてありましたね。
池田 青少年のさまざまな問題は、要するに、未来を志向しゆく、信ずるにたる依処がなくなったということでしょう。つまり、以前は教師は依処であり、宗教家も依処であった。また、医師も依処であった。
それが、近年になって、政治家も、教師も、宗教家も、裁判官まで、信用しないほど青少年の心が変わってしまった。
ですから、いまだ人間的にも社会的にも未成熟である人間が、そのゼネレーションのうえからみて、確固たる依処を与えないかぎり、一種の動物的な衝動に変わっていかざるをえないことは当然なことではないでしょうか。
木口 そのとおりですね。
―― それらを考えると、恐ろしいですね。
池田 多くの著名人たちが、それらの解決のために、さまざまに論議し、さまざまな方途を模索していますが……。それも大事ですが……。
私どもは、多くの抽象的議論よりも、一つ一つ、一日一日、具体的行動で、その解決への活動を、仏法を基盤として展開しているつもりです。
木口 よくわかりました。
―― 次は、星座の話、天文学の歴史などを中心に進めていただきたいと思いますが。
池田 意外に知られていない話が多いですね。
木口 そういたしましょう。