Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 宇宙にE・Tは存在す…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

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10  科学と宗教の接点
 ―― 最近、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』という雑誌に、アインシュタインの再来といわれているホーキング博士の単独インタビューの記事が載っておりました。
 博士は、「すべての法則は、その一段上の法則から導き出されてくる。だから、われわれがめざしているのは、そこから他の法則を導きだすような、より普遍的な原理が存在するかどうかを探究することなのだ」と言っております。これは、宇宙のナゾへ挑戦する科学者の一歩前進した視点ではないでしょうか。
 木口 そうですね。現在の天文学では、ビッグバン以前の宇宙は解明されていません。博士は、ビッグバンも、それをひきおこしたのは何か――ということを思索しています。
 池田 「そこから他の法則を導きだすような、より普遍的な原理」とは何かを、鋭く示唆しているようですね。
 「無量義とは一法より生ず」と仏法では説いています。この一法とは、せんずるところ、南無妙法蓮華経になります。
 ―― なるほど。博士は、不治の病によって、日ごとに衰弱するハンデを負いながら、ニュートンが就任していたケンブリッジ大学の「ルカス教授職」のポストについています。
 木口 天才の名をほしいままにしていますね。
 池田 病み衰えながらも、一つの真理を追究していく姿は、まことに尊いものがありますね。
 ―― 私は、以前フランスのジャック・モノー博士(当時パスツール研究所所長、分子生物学者)にインタビューしたことがあります。ちょうど、博士がノーベル賞を受けてまもなくのことでした。
 そのとき、書斎の壁に、密教の仏画が掛かっていましたので、博士がなぜ仏教に関心をもつようになったかを聞きました。
 以前にも話題になりましたように、生命の解明が、いかに困難なことか、モノー博士によると、たとえ専門の分子生物学で、材料と部分をぜんぶそろえても、生命をつくりだすタンパク質一個でさえ、超天文学的な数で、順序を組み合わせなければ生まれる確率は少ないそうです。
 木口 生命の神秘な現実と科学の落差に、科学者はたいてい敬虔さ、不可思議さにうたれ、ぬかずく思いになります。
 池田 仏法では「本地難思」ですね。仏の「本地」とは、すなわち「南無妙法蓮華経」です。「南無妙法蓮華経」とは、あらゆる生命の働きを生じ支えている究極の法であり、それは不可思議の法であるということです。
 ―― さらに博士は、宇宙において地球が、いかに恵まれたところにあるかについても「科学は、物事の“成り立ち”は説明できるが、それが“なぜ”起こり、“なぜ”そうなっているのかは説明できない。それを行おうとすれば、科学は客観性の公準に別れを告げなければならない」と述べています。
 博士は、キリスト教に、いくらその説明を求めても、科学の「客観性の公準」と、ますます距離ができる一方だというのです。
 木口 科学の歴史からみても、モノー博士の考え方は、ひとつの転回点だったようです。
 博士自身は、科学に価値を持ち込んではいけないと強調しましたが、科学に価値を、そして宗教を持ち込もうという現在の流れをつくりだしたのは博士ですから……。
 いつでしたか『大白蓮華』(一九七三年二月号)に載ったそのインタビューでは、仏教には科学にはない価値と倫理の思想がある、という趣旨の発言をしていましたね。
 「人間のための人間の宗教」への期待でしたか。私もかつて、それを読んで、科学の未来のために心強く思いました。
11  科学の歴史は迷信と妖術との戦い
 池田 博士が所長をしていたパスツール研究所は、キリスト教神学との激しい戦いに勝って、成立したものと聞いていますが。
 キリスト教がゴリ押しする「生命の自然発生説」を打ち破り、近代医学の出発を遂げたという話でしたね。
 ―― そのとおりです。
 池田 密教の仏画などを掛けていたのは、まだ、本当の仏法を知る機会がなかったのだと思いますが。アーノルド・トインビー博士も、同じような思考をされていましたね。
 仏法には「与奪の法門」というのがあります。「与えていえば」「奪っていえば」という論理です。
 ですから、与えていえば、博士はキリスト教との比較を考えながら、仏法の法則の公準を察知されていたのでしょうね。
 木口 仏法のなかで、密教とは、どういう宗教なのですか。
 池田 簡単に言いますと、仏法を大別すると「権教」と「実教」があります。
 その「権教」、つまり、仮の教えのなかで、仏は、「法」「報」「応」の三身の中の一つである「法身」のみを説いているといえましょう。
 「実教」は、「法」「報」「応」の三身がそろい、「法身」「般若」「解脱」の三徳とあらわれるのです。
 ですから、「法身」だけという密教は、完全なる仏教とはいえないのです。
 ―― 十九世紀の化学者パスツールと同時代に生きた文豪トルストイも、キリスト教の実態について書き残しています。
 池田 そうですね。トルストイといえば、私も青春のころたいへんに好きな作家の一人でした。「光あるうちに光の中を歩め」とか、「不幸とは悔恨を残すことなり」などという文章は忘れがたい。
 ともかく、キリスト教の本質を突いた痛烈な文章が、いくつもありますね。
 ―― ええ、そのなかの一つに、「教会の教義は……有害な虚言であり、実践的には、卑俗な迷信と、妖術の混り合い」(『司教会議への回答』)というのがあります。
 木口 「迷信」と「妖術」ですか……。この言葉との戦いが、科学の歴史でした。いまでも、科学者が最も嫌悪する言葉です。
 池田 それは、十分理解できます。
 ―― パスツールは研究所ができたとき、「この研究所から、神を追放しなければならない」という、有名な宣言をしていますね。
 池田 なるほど。その一言に、厳しく象徴されていますね。西欧の知的先駆者たちは、なにか仏法へ……。仏法への探究の道を光線のごとく照らしている感じが多いですね。
 その一人であるモノー博士も、やはり、そうだったのでしょう。
 木口 禅などが、仏法の代名詞みたいになっていますが……。
 ―― すると、ほんの妙法に入る門の前みたいなことになりますね。(笑い)
 池田 そのとおりです。
 モノー博士は、たしか亡くなりましたね。
 ―― 七年ほど前亡くなられました。
 池田 トインビー博士は、時代の急速な進歩によって、「試練を受ける宗教」という言葉を使っている。文明の進化とともに、脱落しゆく宗教、それに対して永遠性と普遍性を帯びた、いつの時代にあっても、一貫して光彩を放ちゆく躍動の宗教――これこそ私は、最高峰の仏教であると確信しておりますが……。
 ―― モノー博士は、思想であれ、哲学であれ、ある種の淘汰の原理があると主張されていました。同じ原理となりますか。
 池田 万有流転の法則ですね。
 ―― まあキリスト教も、長年の間、大迫害をうけながら、ひとつのキリスト教文明を残し、今日にいたったことは事実ですが。
 池田 無数の殉教者がいたことでしょう。それを思うと、私どもは、まだまだ楽なほうです。時代も違いますが……。
 木口 そうですね。キリスト教に対する反発から、科学が進歩したともいえます。また多くの科学者がキリスト教にしばられなかったら、もっと早く、暗黒時代から開化文明の時代に入っていったでしょう。天文学なんかは、もっともっと早く、宇宙を照らしていたでしょう。
 十九世紀までつづいたキリスト教の教義の束縛や、観念論や唯物論の束縛から科学者が抜けだしたのは、つい最近のことなのです。
 十九世紀の科学者、たとえばドイツの物理学者キルヒホッフの文章などを読んでみますと、観念論や唯物論から科学を守ろうと身を縮めているのがわかり、現在の自分の幸せをつくづく感じます。
 池田 人間の「業」といいましょうか。宗教は偉大であるとともに、ときには、たいへんな取り返しのつかない「害」や、「暗」になってしまうのも事実です。
 ―― また途中から、キリスト教は国家権力と結びついて……。いや国家権力まで動かす立場となり、布教の力、支配の力が増長されたといっても過言ではありませんね。
 池田 そのとおりです。
 やっと信教の自由、布教の自由が、日本でも世界でも許されるようになったわけです。それでも無認識の圧迫、中傷批判が数かぎりなくありますが、これは、真実の信仰者の宿命ともいえるでしょう。
 それを乗り越えて布教することが、真実の信仰者の栄光を最も永遠たらしめることでしょう。
12  ますます深まる仏法への志向
 ―― キリスト教の国をバックにした布教、日本でも宗派は違いますが、そういう時代がありました。真の仏法の布教法が説かれている経典には、どんなものがありますか。
 池田 そうですね。
 たとえば、大乗経典である勝鬘経(十受章第二)には「仏法の話をするときは、摂受すべき人には摂受をもって行い、折伏すべき人であれば折伏せよ」と。
 また、「法華経」の結経である「普賢経」という経典には、「折伏しようとするならば、大乗の教えをもってしなければならない」とあります。
 また、中国の天台大師智顗が、仏法の真髄を全十巻にわたって究明した「法華玄義」には、「法華は折伏にして、権門の理を破す」という淘汰論を展開しております。
 私どもは、そのとおり法門にもとづいてやっております。
 ―― 「折伏」を皮相的にとりますと、いかにも不寛容であるという見方が強いようですが。
 池田 よくいわれますが、「折伏」とは、私どもがつくった言葉ではない。
 釈尊が、また日蓮大聖人が仰せになった言葉であり、仏法者全体に言われた言葉なのです。それを、そのまま、正しく、本義に照らして叫び、行動しているのです。
 「折伏」とは悪心を折り、善の心に伏せしめていくということです。低級な宗教、信仰では、生活的にも、文明、社会的にも、また生きる意義からも、弱者になってしまう。そこで低きをより高く、浅きをより深く――の仏法信仰によっての最高の人生、最高の人格、最高の社会観、世界観、宇宙観をもつべきであるという慈悲のうえからの論理なのです。つまり、最大の寛容に通ずるわけです。
 木口 なるほどよくわかります。
 ―― よく釈尊の仏法は母の慈愛、末法における妙法の行動は、父の厳愛といわれていますね。
 池田 そうです。ますます乱れ、ますます濁りきった世相をみたときに、弱々しい偽り親しんでいくような布教方途では、ずる賢くなった人々の心をうてない。
 やはり確信に満ちた、八万法蔵の裏づけをもった極理である正法の布教にあたっては、強く、激しいようにみえるが、この方途しか末法の時代の救済方式は、ないのではないでしょうか。
 木口 なるほど。
 池田 学校の先生も、父親も、宗教家も、政治家もみんな尊敬されなくなってしまっている時代です。「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」という御文があります。
 木口 そうですね。小学校や中学、高校でも、弱々しい教師が暴力をうけていると、なにかに書いてありましたね。
 池田 青少年のさまざまな問題は、要するに、未来を志向しゆく、信ずるにたる依処がなくなったということでしょう。つまり、以前は教師は依処であり、宗教家も依処であった。また、医師も依処であった。
 それが、近年になって、政治家も、教師も、宗教家も、裁判官まで、信用しないほど青少年の心が変わってしまった。
 ですから、いまだ人間的にも社会的にも未成熟である人間が、そのゼネレーションのうえからみて、確固たる依処を与えないかぎり、一種の動物的な衝動に変わっていかざるをえないことは当然なことではないでしょうか。
 木口 そのとおりですね。
 ―― それらを考えると、恐ろしいですね。
 池田 多くの著名人たちが、それらの解決のために、さまざまに論議し、さまざまな方途を模索していますが……。それも大事ですが……。
 私どもは、多くの抽象的議論よりも、一つ一つ、一日一日、具体的行動で、その解決への活動を、仏法を基盤として展開しているつもりです。
 木口 よくわかりました。
 ―― 次は、星座の話、天文学の歴史などを中心に進めていただきたいと思いますが。
 池田 意外に知られていない話が多いですね。
 木口 そういたしましょう。

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