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日蓮大聖人・池田大作

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科学における“個”と“全体”  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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6  現在の“要素論”的方法では「何が何から成り立っているか」といった問いに対してどう答えるべきかが、まったく明らかではありません。なぜならば、相互に作用し合う粒子のエネルギーいかんによって、別の粒子のさまざまな“組み合わせ”が生まれるからです。
 このように、科学知識の一分野である物理学の経験でも、実際に諸現象を研究するにあたっては、個と全体を弁証法的統一としてのみ取り上げなければならないということを私たちに教えてくれます。あるものを別のものと対立させること、あるいは、現象に内在する一つの側面の役割を他の側面と比べて、必要以上に過大視することは正しいとはいえないでしょう。
 現代科学は全体の視点からする実在の研究をますます重視しているというあなたの説は正しいと思います。
 このような方法論は、今日の地球的規模の問題を分析するさい、とくに重要です。つまり、一国経済と世界経済の発展、農業、世界貿易、エネルギー論、生態学、社会統計学の発展にかかる問題を研究するさいには、全体性という概念が前面に押し出されてきます。これらの問題の本質を理解し、問題を解決するためには全体的アプローチによる以外に方法がないのです。たとえば、海洋や大気の国際的な汚染の防止、動植物界の保護、ひいては人体の保健についての対策は、一国の規模ではとうてい解決できず、人類全体の計画的に結集された努力が不可欠でしょう。
 近い将来、多くの学問分野において全体的方法論を優先する傾向が強まることが予想されます。しかしながら、このことは、デカルト的発想が新発見の効力を失うことを意味するものではありません。反対に、その発想から、なお多くの成果を期待することができるでしょう。
 もちろん、この発想自体はおそらく、一定の修正を余儀なくされるでしょう。すでに今日、原則的にはどの全体の組成要素も単一組成とは考えられていません。ある一定の関係では「単一組成要素」として作用しながら、同じ組成要素が別の関係ではその複合性を発揮します。そのうえ、いわゆる「大きな系」の研究において、それらの単一要素は単純な条件のもとでさえ、粒子としては考えられない大きな系によって“分解”されてしまうのです。
 以上の事柄を総括して、私が指摘したいのは“要素論”的方法と全体的視点からの方法はともに、この二つを合理的に総合するという条件においてのみ、実効性が生まれるということです。
 したがって、あなたの問題提起は、現代科学にとり、また現代社会の発展にとってきわめて重要なものと考えます。
7  人間の営為が志向すべき、個と全体の統一という概念はすでに太古の昔に表明されています。このことからみても、あなたのお考えが正しいのは当然です。ただ私が留意したいのは、そうした概念が特徴的なのはひとり仏教だけではないということです。それは、古来多くの哲学者によって表明されてきました。たとえば、古代ギリシャの大哲学者アリストテレスはこの分野で深遠な理念を発展させた一人でした。
 さまざまな分野の客観的現実における個と全体の調和ある相互関係についていえば、この問題に対して一義的な答えを出すことはできません。あらゆる現象において私たちは、個と全体との間に、調和した関係や、調和しない関係を見ることができます。全体を組成する個々の要素は互いに矛盾した行動をとります。まさにこの矛盾こそが安定した全体をもたらすのです。そのほか、全体が個と矛盾することもあります。個と全体に見られるこの矛盾は自然的な現実や社会的な現実における一切の発展過程に固有のものなのです。
 私たちは社会の発展のなかにこのような矛盾の最も鮮やかな実例を見ることができます。とりわけ、今日、一方で、人類は、現代社会の生活、物心両面の文化において起こっている激しい統合過程の結果、統一性なるものをかつてなく感じ、他方で、私たちはきわめて不当な現実を明白に見てとります。すなわち、巨大な科学技術力をもつ現代の文明世界において、十億を超える人々が極貧に生き、数百万人が飢えのために死んでおり、また初歩的な医療施設がないためにひどい生活環境におかれています。
 今日、私たちは、社会と自然の相互作用の調和が崩れた結果として、自然環境が取り返しのつかないほど破壊されるのではないかといった危惧を鋭く感じとっています。まさに今日、全人類を破滅させかねない戦争の危険が、とりわけ私たちを不安にさせています。

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