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日蓮大聖人・池田大作

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自己抑制の基盤  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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3  ログノフ 第一に、あの世で賞罰の判決を受けるから現代の行動を慎めと訴えることは、はたして合理的といえるでしょうか。私は、まず、真の道義性ということは賞罰をあてにしたものであってはならない、ということを言っておきたいと思います。次にあの世が存在するという現実的な証明がなければ、そうした論拠によって人間の行為を倫理的に規制することはできないでしょう。
 ソ連社会の倫理形成の土台に置かれている社会主義的モラルが求めているのは人間の死への志向ではなく、生への志向です。しかし、それは、不死すなわち不滅の可能性やそれへの願望を否定しないばかりか、まさにそのことを前提にしているのです。人間の肉体、その意識は死にます。しかし、私たちは、人間というのは社会的存在であるとみています。物質の一部を成しているものはすべて永遠ではありません。終わりがあります。永遠なのはただ物質そのものです。
 つまり、私たち共産主義者が解釈する不死は別の意味の不死です。生物学的存在としての人間は必ず死を迎えます。生理的死の後に残るのは、その人間が成し遂げたもの、つまり彼が育てあげた子どもとか、彼が植えた樹木とか、彼が建てた家とか、換言すれば、彼によってつくりだされた一切の物質的、文化的、学術的財産なのです。
 したがって、人間の社会的な死や不死は、その人間が生物的存在としてではなく、人類の代表者として成し遂げたものによってつねに判断されてきました。またこれからも判断されていくでしょう。人間が成し遂げたものを測る物差しは、その人間の不死を測る物差しでもあるのです。レーニンやガンジー、シェークスピアやプーシキン、レオナルド・ダ・ヴィンチやニュートン、ベートーヴェンやチャイコフスキー、トルストイやドストエフスキー、ゴーリキーやショーロホフ、安藤広重や紫式部は不死です。
 徳育の面で最も重要なのは、人間を社会のための創造へ志向させること、人間を全人類文化に寄与させる方向に導くことであると私は確信します。
 いうまでもなく、人間行動を規制する文化を人間が会得する尺度は、その人間の住む社会によって大きく左右されますが、他方、社会発展の度合いは、その社会が個々の人間を、そして文化へのその人の貢献をどの程度しかるべく評価する能力をもっているかによっていちじるしく左右されます。くだらぬ輩が高い地位に祭りあげられる一方、天才が、偉大な人物が日陰におかれるという例は、これまでの歴史に数多くあったことにふれる必要はないでしょう。
 大切なのは、いかなる不運にも耐えぬき、困難に襲われても断固としてそれを乗り切っていくとともに、喜びや祝賀のさいには賛美や栄光におぼれることのないような素質です。総体的にみて、「尊厳」とは、こうした素質のことをいうのではないでしょうか。
4  池田 死後の因果応報が現在の生きている人間にとって不明であることから、それが、この世での賞罰よりも本質的に重大な影響を人間の行為に対して与えうるとは期待しがたいと言われるお気持ちは、よく理解できます。
 かつて、死後の因果応報の考え方は、日本でもヨーロッパでも、人々の悪行を戒める力をもっていましたが、近代以後は、影響力を大幅に失いました。人々が仏教やキリスト教の死後への戒めを受けつけなくなった原因は、現実の人生や社会において、これらの宗教信仰の効果が見られないことによります。私の信ずる日蓮大聖人の教えでは、死後のことは不明であっても、現在の人生において現れる効果によって、死後の応報についても信じなさいと説いており、現実のうえでの証拠を重んじています。
 それはともかく、ログノフ総長が今、言われた社会的不死という考え方は、それなりに意味があることは認めます。しかし、社会が与える評価は、時代によって移り変わります。文学や芸術、学術上の業績に対する評価は、それほど大きく変動することはないでしょうが、政治的、外交的業績についての評価は、百八十度変わってしまうことも少なくありません。また、優れた業績であっても、他人に奪われたり、認められないまま、埋もれてしまうこともあります。
 概して、その人が成し遂げたものが“不死”を約束するという考え方は、人々に仕事への励みを与えはしますが、人々を苦悩から救うことはできませんし、むしろ、大部分の人には絶望感を与えることになるでしょう。やはり、生命自体の永遠性の問題、そのうえでの因果応報観と、ログノフ総長の言われる社会的不死ということとは、まったく別の問題であると言わざるを得ません。

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