Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

人間性の探求と文学  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
6  池田 おっしゃるとおりです。とくに日本文学における古典的な手法は、花や鳥、風、月といった自然の事物に仮託して感情を間接的に表現します。ですから、この花はどういう感情をあらわすかという一種の約束事があり、その知識がなければ、何を表現しようとしているのか、作者の真意を読み取ることができない場合も少なくありません。
 ログノフ 私はロシア語に訳された日本の古典文学から少なからず貴重なものを得ました。たとえば、日本人は自分の情緒的な心の動きを抑えるというか、心の中に閉じ込めて外に出さないように私には思えました。もしかすると、主観的、あるいは客観的なさまざまな理由から、むき出しの感情表現を慎むのかもしれません。
 日本文学が重点をおいているのは、人間存在の情操的深さ、人間行為による決められたプロセス(過程)というよりは、むしろ自然の美しさ、その変化の無限性ということではないでしょうか。ロシア文学は、人の心の微妙な動きを解明するため人間の内面世界に深く入り込みます。そのようなロシア文学の伝統によって育てられた私どもロシア人には、初め、日本文学の筆法になじめないのではないかと危惧しましたが、それは杞憂でした。逆に、日本文学を読むたびに、私は、人間と自然との切っても切れない見事な結びつきというすばらしい思いにかられます。現代作家に課せられた一つの重要な使命がそこにあると思います。それは、現代生活の狂ったような激しいリズムのなかにあっても、人間性――善、愛、誠意――つまり、ヒューマニズムのもつ特徴のすべてを失わないということです。
 ドストエフスキーの言葉「美は世界を救う」、そして川端康成の言葉「宇宙の心が一つであるなら、一つ一つの心は、即宇宙である」を思い出してみましょう。調和の探究・外的内的均衡――美の探究こそ大事です。日本の作家が世界に呼びかけている言葉は、現代世界を脅かしている万事手詰まりの状況、人間と自然、そして東と西が分裂した状況、人間自身の意識が分散し、心がバラバラになってしまった状況に対する警告であると思います。今日、いつにもまして忘れてならないのは、人間行為はあくまでも最高度に道徳的なものでなければならないということです。
 二十世紀末に生きる私たちにとってこの感覚はとりわけ重要です。日本の文学・芸術に対するソ連人の理解と関心はここから出ていると思います。ロシア文学を愛好する日本人もまた、同じような思いを抱いているのではないでしょうか。
 私が知るかぎり、日本社会の一定層、とくに年長の世代はロシアの古典文学に通じており、それを正しく感じ取り、理解しています。ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、チェーホフ、ゴーリキー、ショーロホフなどを読んで経験する熱情やエモーション(感情)は日本人にとって無縁なものではないと思います。私はまた、日本人がロシア・クラシック音楽の愛好者であると聞きました。そうしたことはすべて、異なった民族の間の相互理解を助け、双方の民族を近づけ、政治的見解の相違やその他の障害を取り除くための共通基盤を見いだす可能性を与えます。
7  池田 まったく同感です。しかし、先にも述べましたが、残念なことに、私たち日本人にとって、革命前のロシアは、ちかしいものでしたが、革命後のロシアは、どちらかというと遠い存在であるという印象があります。革命後のロシア文学で日本に紹介されたのは、かろうじてショーロホフぐらいで、しかも、読者の数は、革命前のドストエフスキーやトルストイなどと比べものになりません。
 現実には、日本とソ連とは距離的にも近く、漁業問題や産業開発、また貿易関係、さらにいえば文化交流など、相互接触の機会は、きわめて多くなっているにもかかわらず、人間的理解がうすれていることは憂うべき事態です。私は、現代の世界がおかれている事態のなかで、それらに協力して立ち向かうべき同じ人間として、両国民の相互理解がもっと深められなければならないと考えています。
 ログノフ 総じて、人類は、諸民族の文化を近づける方向で発展しています。このことは疑う余地がありません。近年来、文化的統合のプロセスは、マスメディアの未曾有の発達、文化交流の活性化にともない、また人類全体の努力を結集せずしては解決不能な多くの緊急問題の発生によって、とみに早まっています。文化的統合のプロセスは、当然ながら、人々の接近、相互認識、同異の解明をうながさずにはおきません。このプロセスは長期にわたりますが、それでもすでに私たちの目の前で肯定的な結果を生んでいます。
 今日、日本も含めて多くの国で、かつての社会生活上の制約が弱まり、人間の行為を律する伝統的な倫理規範に、ある種の乱れが見受けられます。私が理解するかぎり、先生はこのプロセスが作家に対して、いや作家だけでなく、その他すべての文化活動家に対して、その創作にあたっていやおうなしに人間そのものを凝視し、したがって、人間精神の偉大なる宝庫に細心の目を向けさせるようになっていると言っておられるのですね。
 池田 そのとおりです。日本の伝統的文学は、どちらかといえば、現実の社会的・政治的問題に対して超然として、いうなれば個人の感傷の世界に沈潜する傾向が強かったといえます。それに対して第二次大戦後の文学は、現実の政治や社会の問題に目を向けていこうとする行き方を強めてきました。それは現実への無関心が軍国主義化を許してしまったという反省によります。大江氏や安部氏は、そうした戦後文学の動向をリードした旗手といってよいでしょう。
 ログノフ つねに人間そのものを配慮の中心に置いた文学は、現代の文化的プロセスにおいて重要な役割を果たすよう使命づけられているという点であなたと同感です。それに関連して、私は次のことを申し上げておきたいと思います。私の考えでは、ロシア・ソビエト文学は、それがおかれた地球的・史的特殊性ゆえに東洋と西洋のさまざまな文化的・人間主義的伝統を摂取することができたのであり、この事実そのものが、人類に対して解決を迫っているヒューマンな課題の達成に大きく寄与しています。私には、世界のさまざまな地域の人々を結びつけた往時のシルクロードのように、ロシア文学が、東西を精神的に結びつける一種の糸のように、また、今日さまざまな文化的伝統をもつ人々の人間主義的志向を結びつける堅固な橋、金の橋のように思えます。
 池田先生、先生とのこの対話は、そのような橋を懸ける作業へのささやかな貢献となるのを信じたいと思います。

1
6