Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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“小我”から“大我”へ  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
13  その究極の目的は私たちにはとらえられないとしても、この飛躍に参画することはできますし、それがたどる道をより遠くへ行くよう助けながら、それに貢献することだってできます。個人にとって、人類の運命という、自分を包含している最も高い全体に自らをささげること以上に、心を高揚させてくれることがありましょうか? この人類の運命自体、私たちが知っており、私たちがそこに投入されている宇宙という、より高次元のものを実現するものとしてあらわれたのです。
 この絶頂を極めようとする人間の努力を通じて宇宙の自己実現を助けること、それのみがこの力を“覚知する”ことを可能にしてくれるのであり、その終着点は人間にとらえられず、個人であるかぎり私にはとらえられないとしても、ここにこそ自らに課す、心を高鳴らせる存在理由があるのではないでしょうか。そこには、失望させるものはなにもありません。自己自身についてあまりにも高い理念を描かないかぎり、エゴイスティックな個人主義や小児性の奇形へ私たちをおちいらせる危険も、そこにはありません。むしろ、その反対です。
14  それに加えて、この思考の過程は、仏教のそれとまったく離れているものではありません。つまり、あなたが示されたように“個人の核である小我”と“宇宙生命と合致する大我”との関係です。この上昇にいっそう密接に参画するためには、その流れの中に人類を運んでいるこの“大我”の飛躍、その前進的な跳躍を私たちの内に再び結合し知覚することが大事です。そして、この意味で、他方では、小我は大我の一部分であり、その全体の中に消えるものでありながら、あなたの表現を借りると、「小我は大我を秘めている」のです。
 こうしてみると、私たちの考えは、その説明の仕方は別々の理念によっていますが、基本的には、互いにそんなに隔っていないことがわかります。そこに、私たちが触れ合わなければならない本質的なものがあります。もともと、これほど違った道をたどり、こんなにも異なった精神構造をうけながら、こうして類似した信念に一致したということこそ、どこまでもとらえがたく、どこまでも隠されていようと、一つの真理を、私たちがともに予感しているということのしるしではないでしょうか?

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