Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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理性と信仰  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
26  こうして、私たちは、この歩みの第三段階に到達します。いまや認識によって保証されたこの歩みは、正しい方向へと向けられなければなりません。そして、そのためには、人間は“創造”全体や、その創造に加わるためにきた生命や、その中で最も完成されたかたちである人間の生命や、さらには、それを構成する要素である個々人の生命などの本来の方向を予感し、さらに理解さえしなければなりません。こうして私たちの究極的な存在理由を覚知することによって、私たちは精神の広大な分野に導かれます。
 したがってまず私たちの存在を確保するための物質があり、つぎに生活の場や私たち自身についての行動を明らかに理解させてくれる知性があり、そして最後に、生命と私たち自身の存在理由を垣間見させてくれるために精神があります。宗教は、この精神の分野においてその本質的役割を果たしうるのです。
27  しかしながら、宗教が人間の能力の多様性に適応するものでなければならないことは明らかです。精神的にそれほど発展していない人びとに対するときは教義や儀式をまとっていることも必要でしょう。もっと大きく発展した素質を示す人びとには、教義や儀式、戒律は、本質的使命として人間に示される神秘的飛躍を前にしたとき、消えてしまうでしょう。
 しかし、さらに高い段階にいる、ある種の人びとは、自分自身で、もっぱら自らの人格の努力によって前方への歩みを試み、それが導いてくれる地平線のかなたの天啓への歩みを試みることができるし、また試みるべきでしょう。私は、それこそ、高遠な義務であると思います。また、これは、歩みというより上昇というべきです。山登りと同じように、あまり上手でない人びとはロープを結びつけて、それに導いてもらわなければなりませんが、自己の努力に責任をもつ孤独な登山家もいるはずです。彼らは孤独であることによってそれだけ称賛に値するのです。
 人間一人ひとりがさらに遠くへ行こうとする野心をもつべきですし、また自己にあまり多くを要求しないよう気をつけることも必要です。人間は、さまざまな段階の可能性の中から、自分に合ったもの、自己の開花のために最も効果的な段階をみつけることができなければなりません。

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