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日蓮大聖人・池田大作

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人間の超克  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
9  しかし、集団力への敬意、集団力への信頼は、個としての人間の生命を保障し、その尊厳を確保し増大していくためであって、個人のそうした権利や尊厳性を犠牲にするような、集団力への過度の信仰は否定され排除されるべきです。
 この原始宗教的思考、古代宗教的思考を、人間性に本然のものであり、かつ、人間にとって不可欠のものでもあるとするならば、それが人間性を抑圧し損傷するのでなく、人間性を育む方向へ生かしながら用いていくことが大切です。
 このために必要となるのが、人間に自己自身といかに対決させ、正しい自己の発現をいかに遂行せしめていくかということです。
 三つに大別される宗教の中で、第三こそ実は、この自己との対決、自己の啓発を志向したものでした。すでに述べたように、この第三の宗教が出現したとき、それ以前に強力な支配体系を樹立していた第一、第二の宗教とのあいだに、激しい軋轢が起きました。それは、第一、第二の宗教が、人間性の発現と向上のために寄与するというその本来の役目から離れ、あるいは、副次的な意義しかもたなくなっていて、第一、第二のこれらの宗教によって権威を得、権力を独占している人びとの野心の具となっていたためです。
10  第三の宗教も、それが現実社会の中に流布し、社会の権力体系と結びつくにつれて、人間性の向上と発現の土壌であった本来の役目は見失われていきました。現代の人びとの大部分の心をとらえている、宗教に対する不信は、この第三の宗教さえもおちいった歪曲のゆえであるといって過言ではないでしょう。
 キリスト教が究極の存在を“法”と説くよりも“人”としての特質をそなえた神として説いたのは、あくまでも象徴的な意味であったと私も思います。しかし、大多数のキリスト教徒にとって、神は人格的存在であったことは否定できませんし、その人格的な神の概念が、神に愛され恩寵をほしいままにする人と、恩寵から見放された人びととの差別を生じたことも否定できない事実であると思います。
 仏教においても、法華経のような経典には人格としての仏でなく、法を信仰の根本とすべきであると説かれていますが、それ以外の経典を拠りどころにした各宗派では、仏という人格的存在を具体的な信仰の対象として、儀式が形成されてきています。そして、この考え方は、仏教の流布したアジアの国ぐににおいて、ヨーロッパと同じく、人間を差別する思考を一般化してきたのでした。
11  法華経は、究極の実在を“法”として説きました。あなたもいわれているように、それは深遠なものであり、私たち凡夫の知性ではとらえることのできない不可思議な法であるという意味で「妙法」と名づけられています。“妙”とは、思議・思考の及ばない、という意味なのです。私は、トインビー博士と話し合ったとき、博士も、あらゆる現象の奥に、そうした思議しがたい存在があることを予測されていることを知りました。そして、あなたもいわれるように、キリスト教やイスラム教でも、非常に優れた人びとは共通して、そのような実在の覚知に、多少なりとも到達していると思います。
 そして、このような究極的な法に直結していくところに、現象世界に縛られた欲望と利己的な自我を超越し、かえって、それを支配していく強力な源泉があると私は確信します。その意味で、第三の宗教は、その本質的なものに人びとが目を向けていくならば、永遠に尽きることのない、精神の豊かで強靭な土壌となると考えています。私が生涯の使命として仏教の思想を現代の世界に広めることを決意しているのも、このためです。

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