Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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宗教の諸段階  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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8  私たち人間は、同じ人間の死を、単純に一人の人間が戸籍簿から消滅しただけであるとして片づけることはできません。その遺体をただ焼いたり地中に埋めて処理するのみですませることもできないでしょう。そこに、なんらかの宗教による儀式を行います。伝統的な宗教を否定したとしても、それに代わるなにかを求めずにはいられないものです。
 死には、合理的思考だけではとらえきれないものがあるからであり、また、人間の心の中に、そうしたときになにかの宗教的儀式を執り行うことによって初めて安心を覚えるような心理的メカニズムがあるからでしょう。
 それにもかかわらず、原始宗教や古代宗教は、その主たる舞台を、自然科学や社会科学に明け渡しています。根本的には、もはや、その活躍する舞台はなくなっているといっても過言ではないでしょう。私は、近代以後の科学の発達にともなって宗教がその立場を失ったというのは、こういうことであると思います。
9  キリスト教や仏教といった第三の宗教も、さまざまな説明の中に、原始宗教や古代宗教の思考法や、その当時認められていた知識を取り入れて用いていました。第三の宗教が基本的に目を向けたものは、まったく別の次元にあったのですが、具体的な説明や比喩のためには、当時の人びとがもっていた既存の知識や考え方を用いたのです。それらの知識や思考法が科学の発達によって正当性を否定されたとしても、基本的にめざしたものが否定されたわけではまったくありません。
 たとえば、キリスト教が人間は天地創造の六日目に神によって創られたといっていることが、生物進化論によって否定されたからといって、人間の尊厳性を強調したキリスト教の基本的教えは無用になってはいません。仏教でも、世界の説明として、お盆の上に盛りあげられたケーキのようなかたちをしていると説きました。しかし、それは、当時のインド人に一般的に信じられていた世界観を用いたにすぎず、そのような世界の姿を教えること自体を、仏教の目的としたのではありません。仏教の主目的は、人間の生命の因果の法を示し、未来の生をよりよい条件のもとに始めるために、現在の人生をよりよく生きることを教え、さらに、究極的な人間完成の道へ導くことにあったのです。
10  前項でも述べたことですが、仏教は、この人間が自らの完成のために従うべき対象を、純粋に法として示しました。この点は、キリスト教が、たとえ象徴的な意味からにせよ、人格的な神として示し、原始・古代的宗教の伝統を、その中心的な部分に受け継ぎ、残しているのと異なっています。もとより、仏教が法を根本とするのは、それ以前に、インドではウパニシャッド哲学が発達し、その道をすでに準備していたこともあげられます。
 しかし、ともあれ、キリスト教は人格的な神を立てることによって、そして、その人格的な神への服従を教えることによって、個々の人間自身の尊厳性を不十分なものにしています。それに対し、法を究極的な存在とする仏教の考え方は、個々の人間の尊厳性を完璧なものにすることができます。なぜなら、法はすべてのもの、すべての人びとの内にも平等に存在することが可能であるがゆえに、万人が平等に尊厳であることが可能であるからです。

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