Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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仏教による生活価値  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
16  ユイグ 使う用語とそれに与えられる厳密な意味から、哲学に、種々の難解さが生ずるのは、いつものことです。そして、これに翻訳の問題がからみ、客観的に描きうる、したがってなんの疑義もさしはさむことのできない具体的事実から遠ざかれば遠ざかるほど、このことはあてはまります。
 ここで問題は“価値”です。最も実際的な意味で、価値(valeur)の元の語であるvaloir(値打ちがある)は、事物の計算できる値段を示しています。そこから、具象的な意味で、評価にふさわしいものを指します。すべての物質的、道徳的な“bien”は、したがって、大なり小なり、偉大な一つの価値をあらわします。ですから、生命の“価値”について語り、生命が偉大な価値をもっていると評価することは、まったく自然なことです。
 しかし、あなたが「価値は、ここでは質とは別のもの」とみておられるのは、きわめて正しいことです。事実“価値の段階”を導入してくるものが、質の概念です。そして、この段階を上ることが人間を向上させ、人間に自己完成をさせることになるわけですが、私はこれを、きわめて重要なものとみます。なぜならこの段階の上昇が“事実”の判断に“質”の判断を付け加え、それによって物質的実在を超えて、人間だけに知覚でき、人間にその完成への道を開く無限の視界を突如として開くのです。
17  生命が“それ自体としての価値”であることは、根本的なことで、なにものも、それを否定はしません。しかし、それは、すべての生命の向上と、いっそうの“価値の増大”をもたらす価値の段階の出発点でしかありません。そして、私には、この能力こそ、人間の役割と、その最も根本的な任務を説明するものであるようにみえます。ここから、美と善が、二つの基本的な方向としてあらわれ、各人の生命が価値と質において勝ちとり、自分の生命をつくることができるようにするのです。生命自体、一つの与えられたもので、それは、いうなれば、基本的な“生”の価値で、美と善によって、その長所を増大させることができるのです。
 要するに、生命は私たち各人に与えられた“価値”であり、それは、カントがいったように取り換えられないものです。しかし、それは、まさしく、生命だけが、“価値の増大”を追求する力、才能をもっているからであり、そこに、その存在理由があるというのが、私の確信です。

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