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日蓮大聖人・池田大作

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権力と芸術  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
15  こうして、芸術作品は、たんに芸術家の個人的実在、彼の自我をあらわすだけでなく、彼の生きている時代と、その属している環境の、集団的現実に対する運命的な参画をも、いみじくも表現することとなるわけです。
 さらに肝心なのは、つぎのことに立ち返ることです。つまりその芸術家が表現しているすべては、彼の内面の鉱山から抽出された原石であり、ただ美術的な完成をめざしてのみ噴出され開発されるということです。ここで、私たちはもう一つ別の領域、つまり質の領域に入るのです。
 ここに、芸術がかくも重要である理由があります。ここに、芸術が精神的生活の主動的要因の一つを構成していることの理由があるのです。物質とその開発、経済優先主義によって、量的なものが結局はいっさいを支配している現代社会にあっては、芸術は一つの試薬として働きます。
 芸術のこの本質的な面こそ、今日のあやまちのいくつかを修正しうる解毒剤という、私たちが現代文明の中で芸術に与えるべき立場を証明しています。
16  たとえばフロイトのような人は、現代の文化を、性欲といった部分的な鍵でしつこく関係づけることによって、現代文明を方向づけ、それを開花からそらせることにあれほど貢献したのですが、そのフロイトでさえも、芸術について語るときには、巧みにこの複雑な性格を強調したのでした。彼は、夢のイメージと同じように、芸術にあらわれるイメージも、内面的衝動や魂のかくれた強迫観念の投影として判読することができると述べています。
 しかし、いみじくも彼は、芸術とイメージを区別するものを明確にしています。それは、芸術家は意識によってすぐにイメージをとらえ、意識して仕上げるのであり、なかんずくフロイトが付言するには、芸術家はそれに美術的な価値を付加するために、このイメージを利用するのだということです。
 したがって、芸術家はイメージを物質的な生のままの事実の領域から、質の領域へそれを移行させ、量的事実を質的事実に変質させるのです。

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