Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人間の未来  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
9  また、あなたは、生物の進化の歴史を振り返り、ある生物が自らのもっている能力を十分に発揮できず、その世界に適応できなくなったときには滅び去って、そこに適応できる別の生物に主役の座を明け渡すといわれました。
 この環境世界と生命主体との関係は、まさしく仏教の教えているところと合致しており、仏教では、これを“依正不二”の原理で示しています。法華経では、舎利弗らの弟子たちが、未来、いかなる世界に、どのような名前の仏となるであろうとの記述がありますが、そこに記されている世界の名と仏としての名とのあいだには対応関係があります。先の、宝浄世界の多宝如来というのも、同様です。これらは、仏とその住する世界の関係ですが、私は、これは、生命主体とその環境世界との対応関係についての仏教の基本的な考え方を反映していると考えます。
10  さらに興味ぶかいことに、仏教では、今この世界に人間として生を享けていても、その行為の集積によって、次の生において、かならずしも人間とはならないかもしれないといいます。そうした行為は、欲望や憎しみ、慈愛等々の、心理的動機の内容によって善悪に分類されるもので、たとえば強い憎しみを繰り返した場合は、次の生は毒ヘビのかたちをとるであろうというのです。
 人間の特徴を思考・知性とすることは、仏教でも当然で、本能的な衝動、欲望等を知性によって抑制している、均衡のとれた平静さが重んじられます。もし、そうした知性を活用することなく、感情や本能的な衝動に身をまかせて人を傷つけることが重なった場合は、もはや知性をはたらかせる能力をもたない動物として生を享けることになるわけです。
11  以上のことから考えてみるのに、人間として知性を発揮し、充実した人生を送った人は、かりにこの地球が滅び去るか、あるいは、地球に人類が住めなくなったとしても、次の生は、別の世界に、人間として生まれることができることになります。しかし、それでは、自分は別の世界に人間としてまた生を享けることができるから、この現在の世界が滅びようとしていることに対して無関心であってよいかというと、それは、人間らしい知性の発揮を放棄していることになりますから、次の生で人間になれなくなるのです。
 したがって、私たちは、自ら人間として未来にも生を享けることができるためにも、人類を滅亡の危機におとしいれている現代の諸状況に対して、そのもっているあらゆる知性をふりしぼって、改善の努力をし、人類の運命を、存続へ、さらに繁栄へ、さらに質的向上へと向かうようにしていかなければなりません。

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