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日蓮大聖人・池田大作

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自由と道徳  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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10  ここで私は法華経の中の一節をご紹介したいと思います。それは「常に地獄に処すること園観に遊ぶがごとく、余の悪道にあること己が舎宅のごとし」という譬喩品の一節です。“地獄”とは人間として最も不幸で苦悩に満ちた悲惨な状態であり“余の悪道”とは己を高く持して他を睥睨する権威主義に堕したり、弱者の不幸を顧みる思いやりもない利己主義におちいったり、本能的欲望に心を支配されたりといったような人間として忌むべき状態を意味しますが、自らがそのような状況におちいっていることを自覚できず、むしろそれを楽しみとさえ感じ、それが最も自分として安定した姿であると感じて、それを問い直そうとしないことがあることを、この経文の一節は指摘しています。園観に遊び、己が舎宅に住する以上は、その人は自由に行為していると自覚し、たしかにその意味で自由であることは間違いありませんが、こうした非人間的状況に対して無自覚であることが、真に自由な人間であるといえるか――ここに最も根本的な問題が提起されてきます。
11  たとえば憎しみにとらわれて復讐を誓う人を自由な人間といえるか、権力欲に支配されて権謀術数に明け暮れる人の日々は、真に自由を実現した人の生活といえるかということです。したがって私は、自由というものの究極の問題は、人間の内面性の深化ということに尽きるのではないかと考えます。たとえばピアノを前におかれたとき、人はそれを他人に売り飛ばすことも、ハンマーで叩き壊すことも、でたらめに鍵盤をたたいて騒音を出すこともできますが、真に価値を創造するためには、自由を恣意的に用いてそのように行為するのではなく、自律的に制御をして演奏の技術を習得することが必要であり、最高の価値を生むためには最高の技術を体得しなければなりません。自らをそのように律しうるところに自由の極致があり、そのような自由を獲得していくところに人間の尊厳性があると私は考えます。

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