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日蓮大聖人・池田大作

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欲望と憧憬  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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9  仏教における“業”は、西洋で運命(destin)と呼んでいるものに対応しています。しかし、業とは“行為”の意味で、それが、その人自身の行いによって生じた結果であることを示しています。どのような性格構造をもち、どのような環境的条件に生まれるか、つまり、内面的にも外的条件の面でも、その人の現在の存在のいっさいは、業によるのだという考え方です。それは、神などといった第三者が定めたり、動かしたりしているのではないということです。
 ですから、すでに述べた私たちを束縛し支配しようとしている内的・外的両面の力のすべてが、この業のあらわれとして含まれるわけです。その意味で、仏教の考え方では、自由という問題は、業との戦いという視点でとらえられることになります。
 あなたもさきほど指摘されたように、それと同じく仏教の中にも、業を固定的で不変の、したがって、ただそれに従うしかないものと考える人びともいます。しかし、仏教経典の中でも法華経は、そうしたあらゆる業の形成の源にある根源的生命を顕させることによって、業を自由に使いこなすことができる方途を教えました。
10  身近な次元でこの原理をいうと、たとえば、人間だれしも欠点をもっています。これにも、身体的・精神的の両方がありますが、短気という一例を考えてみましょう。短気といえば性格的欠点とみられがちですが、逆にいえば、行動的という長所にもなりえます。それは、そのあらわれる場面によって、欠点ともなれば長所にもなるわけです。もし、このことを自覚して、欠点としてあらわれる可能性が大きい場合は自分を抑制し、長所としてあらわれる公算が大きい場合は、存分に持ち味を発揮できるようになれば、短気という性格的特徴の業を使いこなしていけることになります。
 広い意味では、人間の教育それ自体が、自由の拡大のための力を各人に与える試みといえましょう。しかし、それがたんに外的世界の面のみの自由にとどまるのでなく、自己の生命の内にあって、しかも深い無意識の底からわきおこってくる力に対しても自由を得ていけるには、仏教の教えるような、人間生命の変革が必要になるでしょう。
11  ユイグ こうして、人間について引き出そうとしている概念がこの私たちの対話をとおして、明確になってきたわけですが、必要なことは、完全な人間、全体的な人間をめざすことです。それを私は、歴史的な意味においてでなく、最も広い意味で、ヒューマニズムと呼びましょう。そして、この完全な人間とは、三頭立ての馬車になぞらえられます。一頭は感受性であり、それは外界の現実が感覚によって私たちに送ってくるメッセージの受容です。また、そこにはこれらのメッセージに対する反応や、無意識の深みから上ってくる深い憧憬といったものの自覚も含まれます。
 第二の駿馬は知性すなわち、これら内外のメッセージの重要性を意識し、それを明快に理解し、論理的に構築でき、概念として表現できる能力です。それに対し、第三の駿馬は意志であり、つまり、私たちの内に生じ、責任感によって鞭でせかれる憧憬に私たちを服従させようとするさまざまな呼び声の中から、自由に選択する能力がこれです。
 これら三つの力の組み合わせによって、人間は完全に自らの能力と自分の運命との所有者になることができるのです。運命は、一面では受け入れられるものです。しかし、それはある種の人びとが信じているように、ただ従う以外にないというものではなく、一面では、芸術作品のやり方で創造されるものです。そこに、人間のもつ最も偉大な高貴さがあります。

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