Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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自由の問題  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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5  池田 仏教の実践者が努力してきたことも、外界からの束縛と自己の内なる運命の力を克服するために、より高度な精神的生命を開拓することであったといえます。
 すでに申し上げたように、そうした精神的生命を支える最も力強く、広大な基盤は、アマラ識と呼ばれる第九識にあり、これを自ら覚知するとともに顕している人を“仏陀”と呼びます。本来、アマラ識は、いかなる人の生命の中にもあるのですが、その実在を覚知することが容易でないだけです。
 すべての人に、普遍的に本来、実在しているという意味で、これは、内在する“法”であるわけです。あたかも、科学者が、外的世界の中に普遍的に実在する法則を明らかにするように、仏は、生命の内奥に実在する普遍的な法を覚知し、これを明らかにして人びとに伝えるのです。ブッダとは“覚知した人”の意で、ボーディすなわち“覚り”、“智慧”を得た人を意味しています。
 仏教の説く真理は、この生命の深い事実の姿であり、仏教の教える実践法は、この真理をすべての人が、仏と同じように覚知するための、自己開発の方法なのです。
6  これは本格的には、ヒューマニズムの問題を話し合う中で論じたいと考えていますが、仏教は、生命の状態を十種類に分けて示します。その最も高度な状態として位置づけられているのが、仏の状態です。それに対して、最も低位におかれているのが地獄です。この高度か低位かを分類する基準になっているのは、自由の大きさであるといってよいでしょう。
 なぜなら“地獄”とは、日本語の意味は、大地の中にある牢獄ということで、いうまでもなく、牢獄とは自由のないところであるからです。仏教の教えにおいても、地獄を説明するのに、縛られ繋がれて自由がないことだといっています。
 それに対して、仏とは覚り、智慧を得た人ということであって、それだけをみると、自由という概念と無関係のように思えます。しかし、フランスの哲学者であるシモーヌ・ヴェーユが明らかにしているように、智慧こそ、自由への主体的な要因であり、真実の自由は、智慧によってこそもたらされ、勝ち取られるのです。
 人間は、科学の知恵によって外界の物質的世界における自由を勝ち取ってきました。しかし、人間自身の内なる生命の世界に渦巻く煩悩や宿業の強い束縛の力に対しては、外の世界へのみ目を向けていては、けっして自由を得ることができません。私は仏教の哲理と実践法は、この内なる世界における究極的な自由への道を開くものであると信じています。

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