Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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自己抑制力の獲得
「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)
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池田
人間生命に包含された“内なる束縛”を、仏教では、先に述べた八識・アラヤ識に刻まれた宿業と、第七識・マナ識につきまとう煩悩――すなわち、種々の生来的あるいは後天的な衝動に求めます。
第七番目の識につきまとっていて生ずる煩悩も、その潜在的なエネルギーの源は第八番目の識にもっているわけですから、第八識・アラヤ識こそ、人間の生命を突き動かしている運命的な力をはらんでいる領域であるといえます。
この第八識は、個としての生命体において肉体と精神の両面で根源的なもの、したがって、個体の肉体的構造や、その特質とも不可分であることは、いうまでもありません。あなたが「肉体的構造の結果である運命の総体」と表現されたのは、この仏教の示している、アラヤ識に沈潜した宿業のうちで、生理学的な側面にあらわれたものを意味していると思います。
宿業は、その個体が誕生したとき、すでに生命の根源にはらまれている業をいいますが、いまいったことからすると、それには、生理学的な業と心理学的な業とが含まれるということになります。
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生理学的な業とは、体質とか身体上の遺伝的な特徴を形成するもので、一方、心理学的な業とは、精神的資質の基盤をなす潜在的な要素をつくっています。そして、生理学的な束縛に決定論を含んでいることは、あなたもいわれているとおりですが、心理学的な業による束縛についても、仏教は、決定論が貫かれていると説いています。
また、さらに、生誕時にはまったく表面にあらわれなくとも、業は、その生命の内深く刻まれているとされており、肉体的・精神的資質とは無関係にみえる、人生途上の事故等としてあらわれるものもあるわけです。
仏教は、このように肉体的・精神的の両方にわたって宿業があることを説き、そこに貫かれている決定論を業因・業果の関係によって示しています。そして生命活動の結果としてひとたび第八識に刻印された業は、そのままではけっして消滅してしまうことはない、とします。業は、業因すなわち潜在的なエネルギーとして蓄えられ、やがて未来のある時点で業果すなわち顕在的な力となって発動してくるのです。したがって、生命主体は、この因果の絆の束縛から逃れることはできないわけですが、それに対して、なにもなすすべがないということではありません。
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