Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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認識の諸段階  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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5  東洋の仏教では、この第六番目の識からさらに進んで、五官の識ではとらえられない内面の世界を把握するため、第七番目の識へと目を向けました。これは“マナ識”といわれるもので、自己の内面をみつめる心です。マナとは思慮という意味です。いわば、深い内省的・瞑想的な思考作用であり、またそうした思考をする主体でもあります。しかし、それは同時に、強い自我意識につきまとう衝動や情念の生ずる源泉ともなっているものです。そこで仏教は、そうした衝動や情念の種子ともいえる、業の蓄積されている第八識“アラヤ識”へ分け入り、さらに宇宙生命そのものというべき第九識“アマラ識”に到達しました。
 この問題については、さらにあとで論ずることにしたいと考えていますので、ここでは、略させていただきます。ただ、この中で、第八識までは個の生命を形成している部分であるのに対し、第九識は宇宙と一体になっている普遍的な大我の領域であるという点に注目しなければなりません。しかも、仏教がなによりも重視しているのは、第九識を覚知し、それを顕させることであり、そこから第八識に含まれる個人の運命的なものに対する支配を樹立できるということです。
6  私は、西洋においても、あなたがあげられたように、芸術家、詩人、神秘家、宗教家等として、深い内面的生命を守るために戦ってきた人びとがいることを知っていますが、彼らが予感し、垣間見たのは、まさに、この仏教の説いている第八識ないし第九識にあたる深層の世界であったろうと思います。
 洋の東西を問わず、人間の深い内面的省察と鋭い直観は、そうした深層世界を、漠然とにせよ、明瞭にせよ、見ていたにちがいありません。そして、私は、この生命の内奥への探究を基盤にしたとき、イデオロギーや文化の相違をこえた、最も深い次元での人間愛の絆が結ばれていくであろうと信じます。

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