Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 生命の内面的変革  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
6  このように、西洋人は、自分の前方を見ることに慣れてしまっているので、自己を意識するにも、鏡に映すように思考の鏡に自分自身を映して向き合って見ることを必要とします。この点は、西洋の美術の歴史における自画像の発展を見てください。
 ですから、私は自分を認識するのに、鏡の中に自分の姿を映して見るほどではありませんが、目を閉じると、私自身についての客観的な像が浮かんできます。そうして、私は自らを体験し、自己とは何かを知ろうと試みるのです。
 これが西洋人のおかしたあやまちです。このあやまちが、西洋の文明の中で、ますますひどくなる内面生活の貧弱化をひきおこしているのです。アーサー・ケストラーは『ゼロと無限』の中で、この変形と精神的排他主義が、たとえばマルキシズムで、どのように進められてひどい結果を生じ、ついには個人とその固有の能力までも排除するにいたったかを、見事に描いています。「われわれは論理の純粋性において他と異なっている……」人民委員の長老、ルバチョフは記しています。「われわれは、たとえ個人の頭の中にであっても、いかなる私的党派の存在も許さない。……われわれは、ビジョンのかわりに論理的推論をとったのである」
 しかし、この極論自体、十九世紀に西洋によって確立され、二十世紀に極限にまで合理化された“客観的”自負への新しい信条の行き着くところにほかなりません。
7  しかしながら、しばしば、ある種の東洋人がしたがるように、この西洋の傾向を杓子定規に考えて、それがどんなに普遍化しているにせよ、その性格に絶対的な価値を与えるべきではありません。それでは、こうしてうけている危険に対して、つねに、休みなく意識をもってきた西洋人がいたことを忘れていることになります。内面的生命を守るために戦った、高潔な集団あるいは個人の運動があったのです。
 もしそれがなかったならば、西洋は芸術家も、詩人も、神秘家も生み出さなかったでしょうし、宗教的生活をもつことさえなかったでしょう。これらの活動はすべて、内面的生命と主観的認識に属するものだからです。
 東洋人は、そのような西洋人とは、同じ平面で交流することができます。そうした西洋人はたくさんいます。東洋人とぶつかりあうのは、最もそれとは対照的な行動、つまり客観的、軍事的、管理的、商業的な意味での行動にとらわれた西洋なのです。

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