Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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調和――生命の法
「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)
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この円融三諦の法理は、人間の生命ばかりでなく、すべての生ある存在も物質の世界をも貫く法理です。物質においては、仮諦の面が強くあらわれているのに対し、空諦、中諦の面が冥伏しているということです。
花や動物などには円融三諦の三つをともにみることができます。ところが、これらの動植物は本来この法理に則りつつも、自らそれを意識において確かめるということができません。それに対して、人間は、自らの意志と固有の力によって、能動的に生命の原理を認識把握し、調和と活力と生命力のみなぎった自己を顕現していくことができるのです。
したがって、人間と動植物との相違は、生命の事実相に自覚的であるかどうかにあるといえましょう。
またさらにいえば、生命の実在に自覚的であっても、こんどは、その生命の円融三諦の働きにめざめた自己であるかどうかが問題となってきます。そして、このことが人間にとって最も重要な事柄であるわけです。
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生命の悠久の律動の中で意識をもつ人間が創造され、その意識が“愛”というすぐれた知恵をもつ一方、憎悪とか貪欲というマイナス面もあわせもつということについてあなたは言及されました。
この点に関連する仏教の教えに“煩悩即菩提”があります。
煩悩とは貪欲とか憎悪、愚かさなどをいい、人間の心身を迷わし悩ませる心の働きの総称とされています。この煩悩が人間社会に盛んになると世の中の調和が乱れ、破壊へとすすみます。
ゆえに仏教の中でも小乗仏教の教えでは、まずこの煩悩から脱することが仏道修行の目的であると教えたのです。しかし、人間がいかに煩悩を消滅しようとしても不可能です。なぜなら、つきつめていえば煩悩を消すことはその発生源である心それ自体を消す以外になく、それは人間という生命体を崩壊させてしまうことになってしまうからです。
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大乗仏教の中でも法華経が明らかにし、教えた“煩悩即菩提”は、煩悩と菩提つまり迷いと悟りとを統一的に説き明かした法理です。煩悩を離れて菩提はなく、煩悩の中に菩提が含まれているという内容をもっています。
その法理を実践的に考えるならば、人間は煩悩に迷わされていくのではなく、煩悩の正体を明晰にみつめ、それを自己の知恵によって超克していくことといえましょう。問題は、こうして明晰にみていく知恵の源泉をどこに求めるかということです。
この知恵は生命の源泉から汲みだされたものでなくてはなりません。自己の意識を、つねにその生みの母である根源的統一の法としての生命へ向けていく努力が大切です。
もし生命という存在を無視して、煩悩を意識の次元のみで処理しようとしても、それが完全な方法といえないことは、人間の歴史が、さまざまな事例の中で如実に物語っています。
“煩悩即菩提”とは煩悩を直視し、それに生命から発する知恵の光を当てることによって人間を束縛する煩悩を菩提へと転換していく原理です。この原理は、したがって、まったく矛盾したものを調和させる原理であるといえます。
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