Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 新しい社会をめざして  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
3  しかしながら、自由社会のほうが、もう一方よりも出口に到逹できる希望があることは認める必要があります。事実、権威主義の社会が拠って立っている原理は、恐怖と力によって服従させようということで、それはファシズムでもそうですし、共産主義でも、マルキシズムのあらゆる形態についても同様です。そこでは全面的かつ無制限な服従しか受け入れられませんから、そして異議を表明するものはすべて無効にされますから、選択が対立したとしても、たいした重要性はないのです。
 自由社会だけが、個人に主導的な働きを認めうる社会です。もとより、一つの時代の大多数がおちいっているあやまちに対して、初めから集団全体にその意識が生じているわけでないことは明らかです。それは、他の人びとより明晰で進んでいる精神の人びとにしか浮かびでてはこないものです。
 ですから、それは個人的で多少なりとも孤立した人びとの意識でしかありません。それがあとにつづく他の人びとに波及していったときに初めて一つの集団化に達するのです。自由社会のみが、その発議性と寛容性の原則によって、現実の体制に反対の考え方に、現実の中にある欠陥や危険性を指摘しながら、それに対処すべき手段方法を見いだす機会を提供します。
4  要するに、私たちの唯一の希望は、必要不可欠の第三の力の出現にありましょう。その力は、計画として、もはや、物質的開発から引き出された利益を配分するのではなく、人間を、今の誤りを補正する別の方向へ導き、彼のうちに眠り埋もれているものを再び浮かびださせるでしょう。この眠っているものとは、物質主義が一徹に否定している精神的なものへの本能的欲求と自覚です。
 いままで、このような運動は、宗教の支えなしでは生じえませんでした。世界の歴史の中で、人間に精神的真理を呼びさまし、精神的な方向へめざめさせることを、自らの仕事とし、与えられた使命としたのは宗教であったように思われます。ですから、私には、この宗教的基盤を保持している、たとえば仏教が、こういった覚醒運動に現実的に専心するということは、非常に大切なことだと思えるのです。
 ほかにも期待できる宗教があるかもしれません。残念なことに、カトリックにせよプロテスタントにせよ、戦闘的な教会の翼はすべて、再び聴衆をひきつけるために、マルクス主義のような物質主義的教義に対して扉を開き、それにおもねらなければならないと考えていることを認めなければなりません。教会は“近代的な”精神に順応しようとし、尻馬にのっかって自らを現代風化しています。教会は、こうして現在に適応することによって、救済の出口を宗教に求めている未来をふさいでいるのです。この誤解は悲劇的です。

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