Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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侵される自然  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
7  ベトナム戦争のころ、政府への抗議として仏教僧が焼身自殺をしたことがありましたが、もちろんそれらは直接的には最も激しい形態をとった政府権力への抗議であったにせよ、もともと仏教の修行としてあったことが、それらをさせる要因にもなっていたようです。
 人間は、自然との一体化をめざし、ある場合には、人間といってもけっして動物たちや自然よりすぐれているのではなく、人間のほうがおろかであるとさえ考えるところから出発すべきではないでしょうか。しかしながら、人間がいくら自らを罪深い存在と感じても、また人間の存在、出現自体が誤っていたと考えても、それで問題は解決するわけではありません。
 それにもかかわらず、価値を創造していると信じて行っている現代人の行為のほとんどすべてが“人間のためだけの行為”であることは確かであり、そこに反省を加えなければならなくなっていることは否めないでしょう。その認識のうえに立ってどう出発すべきかを、人間は考えるべきです。
 人間は生命を殺戮する動物であると同時に、生命の尊さを深く認識しうる動物でもあります。“煩悩”を否定して“悟り”があるのではなく、“煩悩”に突き動かされる人間の業をみつめながら、それをどう転換していくかを考える以外に人間の生きる道はないし、そこに煩悩即菩提という大乗仏教の考え方があるのだと、私は理解しています。
8  思うに、人間が今まで、その文明的営為の根本としてきたことは、どうすれば自分の目的をより効果的に、早く達せられるかということであり、その目的がはたして善か悪かということは、あまり考慮されなかったといってよいでしょう。それはとくに科学・技術における場合に顕著であったようです。しかし、これからの人間は、その目的自体の善悪を問わなければなりません。それも、人間にとっての善悪のみを考えるのでは不十分です。“地球のために”“自然のために”なにが善でなにが悪かということです。それを一つ一つ正しく見定めるなかで、その手段としての技術の開発も許されるべきだと思うのです。
 しかし、現実にあっては、いっさいの状況を見きわめることは、われわれの知性では不可能です。しかも、はやく着手しなければ他の人びととの競争に敗れてしまうという危惧から、十分な考慮をしないままに実践化に踏み出してしまうことになりがちです。しかし、人間は自然と仲良くやっていくには、その“見きわめること”が大切だと思うのです。
9  たとえば、工業製品を送り出すときには、まずそれが用済みになったときどう処理するかに明確な結論を出してから、開発すべきだと思います。日本においても、プラスチック製品の便利さに酔いしれていた時代から、その処理に困る時代に移っていますが、“とりあえずつくる”のではなく、その再生方法を開発してからつくっても、けっして遅くはなかったでしょう。
 道路をつくり、河川を変えるときにも、まずそれが人間の生活に対してばかりでなく、自然の営みに対して及ぼす影響を考えてから、着手すべきです。それをしないで、人間の経済的影響性だけで判断してつくったために自然破壊をもたらし、予想もしなかった災害を呼びおこしてしまった例も少なくありません。

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