Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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空間における混乱  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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6  つぎに、この第一の地域の周りに、第二の地域があります。それは、他の仲間も近づくことのできる混合地域ですが、そこでは種々の礼儀作法を重んずることが前提になります。
 さらにそれを越えた先は、冒険の未知の世界が広がっているわけです。
 動物の多くについて確認されている、この段階的な空間の区分けは、人間においても通ずるものがあります。住居の中では、私たちは家庭という広がりをもった個人的自治を十分に享受できることを求めます。私たちはそこに外部の世界が、たとえ聴覚の形であっても闖入してくるのを禁じます。
 その向こうに、私たちは、人と行き来する交際地帯を設けることを望みます。これは“近所”といわれるもので、そこで人びとは交わり、知り合いになり、一つの集団を形成します。これは、動物の場合の第二地帯にあたります。それを越えると、社会とその集合的大衆のみの世界が始まるのです。人間は増大する匿名性の中に入ることによって、“よそよそしさ”の中に自分を守りながら同時に他の人びとと交流できることを望むのです。
 しかし、この交際の原理は人間と関わる交際だけではありません。それは自然との関わりについても維持されなければなりません。なぜなら、私たちは個人への収縮を越えて社会に参画する欲求をもっているだけでなく、あのロマン派が覚知し発展させたように“万物”に参画している実感をもちたいという欲求もあるからです。
7  ところで、ロマン主義者たちは、創造者としては最も極端な個人主義者でしたが、自然の調整の働きによって、彼らは自然と融合し自然の中に沈潜することを夢見ていたのです。これは、孤立化と交流との弁証法がそこに働いているということ、そして、それなくしては人間は正常に自己を形成できないということの一つの新しい証明です。
 同じように、私たちは精神生活において、世界を表現し、それについての近づきやすく消化しやすい表現(表象)を保持したいという欲求とともに、感覚能力によって、それと一種の一致状態になり、それによって宇宙生命に参画している感覚を生命に得たいという欲求をもっています。私たちは、これら二つの極のあいだに均衡を保っていかなければなりません。
 他人やさまざまな“存在”との触れ合い、自然やさまざまな“事物”との触れ合い、一体感の源泉となるものや“宇宙的なもの”との触れ合い、これらは芸術的能力のおかげであるとともに宗教的精神によって得られるものであり、これらこそ、独立を熱望する自我と、至高の開花である全的なものとのあいだに必要な循環を各人の内に築くのに不可欠の梯子段なのです。

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