Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 道徳的危機  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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3  この私たちが“自然”と呼んでいる本質についての議論、その結果として、自然的であるか否かということについての議論は、際限のない、空虚なものになってしまうでしょう。ですから、そういう議論におちいらないように、ここでは単純に、こういっておきましょう。人間はこの世界に投げ出されたとき、自分がそれによって自らの生を組み上げなければならない基本的な所与の前におかれているのを知ります。
 その基本的所与の第一は、まちがいなく外的現実であり、彼は自分の身体と感覚によってそれと接触します。それは、私たちにとって二つの方向への広がりをもってあらわれます。二つの方向とは、一つは空間の広がりであり、もう一つはそれと結びついていますが、時間です。私たちは、この時間と空間というものの外に出ては、なにひとつ認識できません。しかし同時に、私たちは自らを、この外的現実とは別のものとして認識します。自らにおいて直接的に知覚される内的現実として自分を感じます。ある意味では、それが私たちを形成しているものであり、私たちの自我、人格はそれによって育まれ、私たちの思考、感情、欲望、意志は、そこから広がっていくのです。
4  私たちは、これらの、空間・時間・内的生命という三つの場の中でしか自らを実現することはできません。この内的生命は、より端的にいうと、ベルクソン(二十世紀初のフランスの哲学者)のいう“持続”に対応しているものです。これらが私たちに提供されたものであり、これらのそれぞれの中で、私たちは正常な存在の条件を渇望することができるのです。もし、私たちがフラストレートされているという苦しみを味わっているとすれば、それは、各人の中で、これらの条件が私たちから離反しているということなのです。
5  池田 今いわれた空間・時間・内的生命という、私たちの生に固有の、これら三つの広がりについて、順に明らかにしていきたいと思います。そして、あなたが分析されたように、現在では、それらが、私たちの深い本性の求めるところに、もはや合致していないという点を考えてみたいと思うのです。

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