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日蓮大聖人・池田大作

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序文  池田大作  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
7  あらゆる宗教がそうであるように、仏教においても、かつて創始者たちが初めて真理を語ったときには新鮮な響きをもっていたことばも、時代の変遷とともに古びて聞こえるようになってしまった。しかし、その言葉の中に秘められた真理は、けっして古びたり衰えたりしてはいない。黄金は、どんなに埃をかぶっても、やはり黄金なのである。
 ただ、それが黄金であることを人びとに納得させるためには、その表面をおおっている埃を取り除かなければならない。その埃とは、歴史の推移の中で形成された固定観念や、それに対する反発から浴びせられた偏見のたぐいである。とはいえ、私の理解や解釈そのものが、また新しい埃や泥を重ねることになってはいないかを恐れる。
 私が仏教の世界とは離れた西欧の知識人、思想家との対話を思い立ったのは、一つにはこの点について自分でも納得したいがためであった。先に対話した故A・J・トインビー博士は、今世紀を代表する歴史家の一人であり、人類の文明を歴史的にとらえられている大局的洞察力は、私の思考を全体的に検証するためのなによりの鏡となった。
8  ルネ・ユイグ氏は、現代フランスの屈指の美術史家、美術批評家であられる。しかも、ユイグ氏は、たんに美術作品の研究家であることにとどまらず、美術作品を生み出す人間の魂の深みに対しても、すぐれて明晰な観察をされており、氏の数多くの著作は、その深遠な人間探究の書ともなっている。氏の『見えるものとの対話』の一節などは、仏教の生命論の根本である十界論とまったく合致する内容をもっているほどである。
 西洋文明の土壌の中に培われたすぐれた知性の代表としてのルネ・ユイグ氏に対し、私は学者としてではなく、東洋の仏法の実践家として人生を歩んできた。同じ学者同士の対話とちがって、うまくかみあっていないところもあるかもしれない。この対話は、二つの歯車のかみあいとしてではなく、二つの魂の相互照射として読んでいただければ幸いである。そしてなによりも、ユイグ氏という明晰な鏡を得て自らを映しみる機会を与えられたことを、私は感謝している。

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