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宗教における寛容  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  こうした考え方が、宗教・思想の違いによって起こるさまざまな葛藤の原因の一つになってきたことは、よく知っています。しかし、教義における絶対性を確信することと、教義をひろめる手段における不寛容、特に世俗的な権力などを用いての不寛容とは、まったく違うはずです。歴史上に見られる、宗教における確執のほとんどは、後者の不寛容が原因と考えられます。
 私は、宗教における寛容について論ずる場合、教義に関しては絶対性への確信があって当然であると思っていますが、弘教宣伝においては絶対に寛容でなければならない、つまり、いかに教義の優越を信じていても、それを世俗的な力で押し付けることをしてはならないと考えています。真理の唯一の保持への確信と寛容の精神との両立の道は、ここにしかないと考えていますが、教授はどうお考えでしょうか。
3  ウィルソン 宗教的寛容は、キリスト教世界の歴史においては、きわめて徐々に確立されたにすぎません。キリスト教徒は、ごく初期の時代から迫害を受け続けたため、彼らの宗教が国教になると、直ちに他宗教に対して迫害を加え始め、これが何世紀にもわたって続けられました。
 教会を形成したキリスト教は、「汝の敵を愛せよ」という命令や、「柔和であれ」、「謙虚な精神をもて」、「他者を許せ」といった美徳の勧めにもかかわらず、異教徒、異端者、反対者、他宗教の信者などを追及するに当たっては、冷酷無情であることを実証してきました。キリスト教は、批判も反対も許さない排他的信仰でした。ルネサンス期には寛容の態度への動きもいくぶん見られましたが、これも、無信仰の一般大衆や良心的な反対派に対しての寛容というよりは、知的環境の中で示された寛容であり、このためキリスト教の記録は、十七世紀までは、無分別な確信と、ほとんど緩和されない不寛容の記録になっています。
 キリスト教徒であれ、イスラム教徒であれ、またはその他の宗教の信徒であれ、宗教的不寛容の責を負うべき人々は、通例、彼らの大義の正しさをまったく確信しきっていました。また彼らは、そうした不寛容そのものが、長い目で見ればその犠牲者たちのために示されたものであって、それらの犠牲者たちが最終的に救済される見通しが少しでも立つためには、それは必要なことだったのだ、と自らに言い聞かせてさえきました。
4  また、宗教的独善と、その他の政治的・経済的利益がたがいに寄り合うことも、多々ありました。中東の諸宗教にあっては、宗教の名において、隠された政治目的のために残虐と非道を行った人々の例が、おびただしい数にのぼっています。
 プロテスタンティズムは、宗教的寛容の拡大に弾みをつけ、十七世紀までに、いくつかの国々において、ある程度まで宗教の自由を確保しましたが、私は、一つの新しい多宗教社会が創設された時をもって、宗教の自由が、キリスト教諸国の規範として、初めて真に保障されたと考えています。この新しい社会とは、いうまでもなくアメリカ合衆国のことです。合衆国は、その国民が多様な宗教的伝統(といっても大部分はキリスト教諸信仰の範囲内でしたが)から集まったため、また、彼らの多くが自由を求めた宗教的亡命者であったため、宗教的自由の諸条件を提供することを旨とする世俗社会にならざるをえなかったのです。
5  アメリカ合衆国は、人間が自らの個人的な判断に従って信仰し、礼拝できることを保障するうえで、さまざまな意味において、他の諸国の先駆となりました。アメリカには“チャーチ”(教会)や“セクト”(教団・分派)とはっきり区別される“デノミネーション”(教派・会衆)として知られる宗教組織の形態が創設されました。各デノミネーションは、たがいの正当性を認め合い、キリスト教の伝統の中、しばしば「信仰の多様性(注1)」といわれるものを認めています。もちろん、教派主義の結果、教義的独自性の減少や相互受容が、さらには信仰無差別論さえもが、着実にもたらされています。
 ここで私が合衆国の例を特に述べたのは、別に、他の社会の宗教的寛容の例を無視するためではありません。しかし、合衆国は、たしかに特筆に値します。なぜなら、そこでは宗教的寛容を意識的に掲げており、しかもこれは、かつて排他主義を最も強い関心としていたヨーロッパ諸国の宗教的伝統にさからってなされたものだからです。
6  その他の、一神教への帰依がはっきりと認められない地域の伝統においては、宗教的不寛容が行き渡る可能性はあまりありませんでした。多くのアジアの支配者たちは、他の信仰の人々に対して模範的な寛容の態度を示しました。しかし、意識的・積極的に宗教的寛容を奨励することと、多神教的ないし混淆主義的な伝統の中での宗教的無関心との間には、違いがあります。後者の場合は、信ずる宗教はどんな宗教でも多ければ多いほどよいという、ほとんど確信に近い考え方の中で、たがいに相矛盾する信仰を同時に信奉することが行われているからです。
 現代世界にあっては、宗教の自由が保障されるのは、国家がすべての国民のために良心の自由を保障する、意識的・計画的な政策を遂行する国々だけに限られています。そこでは、少数者の権利が守られ、思想の交流や普及が自由になされます。各宗教運動の成員は、真理を掴んでいるのは自分たちだけだと感じ、しかも強くそう感じているかもしれません。
 そうした各団体にとって、彼らが妨害をされずに活動できることの唯一の保障は、他の団体も(妨害をされないという)まったく同じ立場を取っているという認識だけであり、それ以外には何の保障もないのです。もし彼らがたがいに非難し合うならば、秩序と寛容の構造を破壊してしまうかもしれず、その構造が失われてしまえば、いかなる団体も存続できなくなることでしょう。
7  したがって、あなたが指摘されたように、そこには微妙な均衡が保たれる必要があります。いかなる宗教運動に対しても、その運動の立場を自ら損なうよう要求することはできません。どの運動も、その信者たちに全面的な忠誠を求めるのは当然のことなのです(キリスト教の主流をなす諸教派や、またたぶん他の既成の諸宗教の場合も、信者に対しては、たしかに少ない要求しか出していません。これらの教派は、外見のみ異なる団体として活動しています。つまり、同じ製品に異なる“商標名”を付けているわけで、実質的な宗教による売り手独占といった状態なのです)。
 他方、いかなる宗教運動も、敵意に満ちた環境を生むようなやり方で、他の運動を謗ることはできません。まして、自派の利益のために、他の運動の信仰に世俗権力が介入するよう求めることなどできないのは、いうまでもないことです。なぜなら、同じ武器が、やがて自分たちに対して使われることがあると困るからです。
8  (注1)「信仰の多様性」(plenitudeoffaith)
 教派、会衆、教団、宗派等、キリスト教全体の広い枠組みの中にあるさまざまな信仰形態の違い、多様性に関して使われる用語で、主として、それらの諸分派を同じキリスト教に再統一する見通しについて、楽観的評価に立つ人々が用いるもの。

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