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日蓮大聖人・池田大作

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宗教と道徳  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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6  この点では、道徳的な事柄におけるキリスト教の働きは、あなたが述べられた仏教の場合と異質のものではありません。キリスト教の説得力ある訓令は、律法について「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(注1)と述べていますが、これは律法をせせこましく、機械的に履行することよりも、その律法の精神を内面化することのほうが重要だということです。しかし、これは、だからといってキリスト教の教えにある、個人の振る舞いに関する無数の規定を無視してよいというのでもなければ、教会が時折、諸政府を強く動かして――アイルランドのカトリック教域で避妊具の使用を禁止したように――キリスト教道徳を施行させたやり方を否定するものでもありません。
 もちろん、キリスト教そのものも、新たな状況に対応せざるをえない場合は周期的に内的変化の過程を経てきており、そうした変化の過程は、時に個人の意識の変化を必要としました。この変化は、あなたから見れば、ある面では精神革命に類似しているとさえ思われるかもしれません。
7  ピューリタン(清教主義者)、パイアティスト(敬虔主義者)、エヴァンジェリカルズ(福音主義運動家(注2))などに見られた道徳意識の高まりは、社会的抑圧の機関に頼る代わりに、まさにそうした、個人自身が責任感を深めるよう導くことに主眼を置いた、倫理の再強化の好例を提示しています。もちろん、キリスト教信仰にあっては、道徳的判断がもっぱら個人だけに任されるということは、絶えてありませんでした。たとえきわめて概括的な言葉で仄めかされた命題に関するものであっても、そこには常に客観的な規準がありました。改革運動や復興運動は、そうした規準に関して個人がより良心的になることを目指して行われたのです。
 これに比べて、仏教には事実上、より大きな個人的な分別の余地が残されているのでしょう。だからこそ仏教は、さまざまな異質の文化的状況に、より容易に順応してきたわけです。
 キリスト教は、時には狭小・偏屈なやり方で、常に細目にわたる道徳的要求を異質文化に課そうとし、あらゆる社会をキリスト教化すること――つまり、それによって道徳化すること――を、その役割と考えてきました。それにはキリスト教倫理の思想的土台とその組織構造も評価しなければなりませんが、ともかくキリスト教は、他のいかなる宗教よりも強力な、方向性ある文化的変革への媒体となってきたのです。
8  (注1)『新約聖書』「コリント人への第二の手紙」(三・6)。
 (注2)エヴァンジェリカルズ(福音主義運動家)
 各種のプロテスタント教派・会衆にわたって存在し、体験的信仰を最重要視して布教に熱意を傾けるキリスト教徒。自己の罪深さへの認識とキリストの福音による贖罪が必要であることを強調する。十九世紀のイギリスとアメリカで隆盛し、プロテスタント諸国では現在も大きい勢力をもっている。

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