Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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性善説と性悪説
「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)
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一般に、自己の悪い面を抑制する手段としては道徳が考えられますが、道徳的知識はどんなにたくさん積んでも、そのままでは行動の規範にはなりえないと思います。その理由は、人間の行動が、理性に従う以上に、感情・情動によって左右されるからです。主として理性に支えられている倫理的な意識を情動の力が踏みにじってしまうことは、日常的にも経験されるところです。
私は、倫理的意識のはるか内奥から突き上げてくる情動の嵐を、どのように克服していくかという問題こそ、宗教の課題であり、倫理を支える基盤となるところに、宗教の役割の一つがあると考えるのです。
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ウィルソン
善と悪とは、私には本質的に相対的なもののように思われます。したがって、人間を生来善ないし悪なるものと考えることは、その前提として、人間の性向が評価されるような、何らかの規範的脈絡を仮定して初めてなされることだと思うのです。この規範的脈絡は、どうしても社会的なものとならざるをえません。なぜなら、道徳の範疇が定められ、道徳律が各個人に伝えられ、欲望や行動の是か非かの判断力が個人に与えられる等のことは、すべて社会の中で行われることだからです。
人間各個が、生まれながらに自己充足への強い衝動を具えていることは確かだと思います。そして、その衝動には食物、温かさ、愛情などへの欲求だけでなく、性欲や、さらには、特に欲求が満たされないときに発揮される攻撃性なども含まれています。
そのような衝動は、ときとして、他の個人の欲求や、また社会生活の秩序ある規制の必要性と対立するものとなり、その場合は、こうした衝動はたちまち悪と判断されてしまいます。というのは、社会の利益のためには、そうした個人的衝動は抑制され、自制され、あるべき方向へと導かれるべきことが必要とされるからです。
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私は、人間の社会生活とは、またその精神生活とは、ひとえに諸々の緊張をいかに抑制するかにかかっていると思っています。この緊張の抑制は、最良の環境の場合は、人々が自分でもそうした緊張が潜在することに気付きさえしないほどに効果を上げうるものです。たしかに人間の好みというものは、その人が社会から要求されることと直接相容れないことが多いのは自明のことだと思いますが、しかし、いま述べたようなことから、人間が絶対的な意味で、本来、善であるか悪であるかを断定するのは、どうしても難しいと考えるのです。
教育の大部分は、個人が洗練された態度や気質を習得する過程であり、個人は、そうして身につけたものによって(習俗や様式、しきたりを守るといった)外へ向けての振る舞いだけでなく、(正義感・義務感・責任感・正直さといった)内面的な徳性まで左右されます。こうして個人は、社会によって決定される自己認識を受け入れることになる、ということができましょう。社会――あるいは社会の最良の見本――が、個人にとって自己の振る舞いの判断基準となるのです。個人はまさに、社会全般で維持されている形式的規範によって、自らを規制することを学ぶわけです。
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あなたもお分かりのように、私の立場は、あなたが仏教徒について述べられた考え方とほぼまったく同じです。社会は管理のための枠組みを維持しますが、最高度の文化は、それだけでなく、個人が社会の規範を内面化し、自己抑制を保つときに初めて達成されるものです。
道徳的規制が知的論議によってしばしば正当化されることは確かです。しかし、あなたも同意されることでしょうが、そうした道徳的規範は気まぐれなものであり、それが正当化されるのは、ある意味で、各個人の振る舞いのあり方について、一つの安定した見通しが立てられる体系をもたらしてくれるからなのです。
自己充足を求める人間の欲求は、さまざまな情念に根差しており、多様な欲望の対象に対して複雑な追求をするものです。なかでも、仲間から尊敬されたいとか、良い評判を得たいとか、他人の手本となりたい等々の欲望は、あらゆる次元での愛を求める、より深層の情動的な要求と絡み合っています。しかも、そうした愛への要求は、より高度で、より認識しやすい局面でなされるだけでなく、また、深い配慮の愛情こもった表現で示されるだけでもなく、きわめて肉体的な形でも行われます。
社会における道徳的規制とは、実際には、人間に対する情操教育になります。“しつけ”という表現は(少なくともますます放縦主義になっている西洋では)もはや当世風ではなくなっているものの、そうした情操教育では、このしつけが基調をなしています。しかし、道徳というものはその本質からいって、強制しても効き目はありません。あなたが示唆されたように、しつけは、少なくともある部分は自ら課さなければならないものであり、そこに、現代世界のあらゆる先進社会で(また、たぶん過去の時代のいくつかの社会でも)、必然的に自己規制こそが道徳律を形成する主たる源泉になってきた所以があります。
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個人は、人生の初期における訓練によって、自らをどの点で、どのように律すべきかを学ぶのです。情操教育と、社会全般が求めるものに合致する価値観を個人が獲得していくことは、人生のきわめて初期に始まる、明らかに微妙繊細な過程です。私は、人間の基本的な反応のいくつかは、理性や宗教によるよりも、その前にすでに心の中に植えつけられているものだと信じています。
子供は、一連のしてはいけないことを理解し、それを状況への精神的対応の一部に組み入れます。しかし、成長するにつれて、もっと微妙な道徳的問題を解決しなければならないとき、あるいは、自分の道徳的態度を正当化する必要や、社会生活の道徳体系を査定する必要があるときには、別の価値体系とその知的ないし宗教的な合法化に頼ることが必要となるでしょう。個人はまた、そのような高度な価値体系に依存してこそ、形而上的概念や何らかの超越的領域の基準から抽き出された(あるいは少なくともそれらによって裏打ちされた)道徳観に確信をもつことができるのかもしれません。
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道徳が宗教を源泉としてきたことは、人間の歴史全般に見られることです。すべての社会がそうした宗教的思想を受け入れており、たとえその社会が(アメリカ合衆国のように)表向きは世俗的な社会である場合も、あるいは(多くの近代国家がそうであるように)その運用が事実上、世俗的な場合でも人々は、自分自身の道徳観が伝統的宗教に根差し、是認されているという認識をもち続けているものです。
いうまでもなく、どの社会にあっても、それによって道徳的慣習を形成しているさまざまな習慣の集積は、すべて民俗文化に起源をもっていますが、通常は、それも、その後のより普遍的な倫理観を包含した、あるいは(イスラム教におけるように)個人の振る舞いに多くの厳格な規制を付け加えた、宗教的教義によって修正されてきています。こうした“公式教義”や“教典”から、一つの道徳体系が発展するわけです。もちろん、このような道徳体系も、完全な形態を備えて生まれてくるわけではありませんし、その中にはやがて消滅するような要素も、解決されない矛盾も、達成不可能な訓戒も含まれております。
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宗教は、常に、道徳の最も強力な補強材となってきました。このことを、西洋人は痛切に感じています。それというのも、キリスト教は、きわめて明確に一定の道徳体系に保証を与えましたし、カトリック教会もプロテスタント教会も、何世紀にもわたって熱心に、道徳を事実上その主要な関心事としてきたからです。
そこでは、神の定めた一連の規律が、従うべきものとしてキリスト教徒に与えられただけではありません。宗教のもつ情動的な力もまた、すべてのキリスト教徒に対して、自らの振る舞いや内面の思考に絶えず注意を払う必要性をはっきり理解しようとする気持ちを起こさせるうえで、役立てられたのでした。不道徳なことをすれば自己の魂を危険に晒すことになるとの恐怖に加えて、神は罪人たちのために命を捧げ給うたのであるから、不道徳な行為は神への裏切りであり、神に苦痛を与えることになるのだという思想が、善行への情緒的補強材とされたのです。
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しかし、あなたは“宗教”という言葉を当然、仏教徒として、(人間による神の排除という、感情的に痛ましい歴史をもつ)キリスト教において要求されるよりも、はるかに形而上学的な意味で使っておられるのだと思います。仏教の道徳律は、客観的に表現され非人格的に作用する一つの体系に根差しています。つまり、仏教の道徳律は、世界あるいはたぶん宇宙がそれによって動いている原理体系の一部をなすものです。そのような哲学は、客観的な範疇として、善悪を基準に立てるようです。一つ一つの行為がその必然の結果を生み、善悪いずれかに規定されるわけです。
そうしますと、この善か悪かということは、何らかの潜在的な価値基準によって定められたものなのでしょうか。もし、そうした価値基準があるとするなら、これは明らかに、特に知的に有能で情緒的に安定している人々、道徳的振る舞いにおける因果関係の長期的バランスについて視野をもつことのできる人々にとっては、たいへん力強いものとなります。
しかし知的にそれほど鋭敏でなく、情緒的にもそれほど抑制の効かない、未来よりも現在に生きがいを見出す人々にとっては、そうした価値体系も、道徳的に優れようという欲求を、短期的には無視し去らせることになりかねません。その場合は、もちろん、彼らは自身の宗教的責務を理解していなかったのだというべきでしょう。
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池田
教授が初めに述べられたように、善と悪は相対的なものであり、特に社会的規範の遵守・違背という点について見ると、そのことは明瞭であり、しかも、それらは時代・社会によって変化するものです。これに対して仏教では何を善とし、何を悪とするかといいますと、他の生命存在の生命を奪ったり幸福を破壊する働きを悪とし、その反対を善としているというふうに考えられます。ですから、仏典には、釈迦牟尼が過去の人生において実践したさまざまな修行が述べられていますが、その多くは、他の生命存在を慈しんで自己を犠牲にした話です。
前にも紹介した飢えた虎の母子にわが身を与えた薩埵王子の説話や、鳩を助けるために自身の肉を鷹に与えたという尸毘王の説話は、釈尊の過去世の姿として説かれております。
これらのエピソードには、他者(それが虎や鳩、鷹であっても、あらゆる生命存在)の生命と幸福のために尽くすことが善であるとする、仏教の基本的な考え方が端的に示されています。逆に、悪を行う代表として仏典に絶えず登場する魔は“奪命者”あるいは“奪功徳者”と説明されています。命や幸福を奪うことが悪であるというのが仏教の考え方であることは、このことからも明瞭でしょう。
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この仏教の善・悪についての考え方は、社会によって異なるとか、時代によって変転するとかいった不安定なものではありません。たんに社会的慣習が基準で、それに従っているのが善、それから外れたり逆らったりしているのが悪であるというなら、慣習そのものが社会によって多種多様ですし、時代によっても移り変わりますから、善・悪もきわめて相対的なものとならざるをえないでしょう。しかし、他者の生命や幸福を破壊することが悪であるとすれば、これは時代や社会によって変わるということはありません。
もちろん、たとえば、他の生き物の生命を奪うことに幸福を感じている人がいるとき、それをやめさせることは悪になるかといえば、そうではありません。他者の生命を奪うという悪の行為は、その行為を行う人自身に、未来には大きな不幸や苦しみをもたらします。したがって、それをやめさせることは、未来の苦しみから救うのですから、善の行為となるのです。同じように、麻薬に溺れている人を中毒から救うのも、その生命を破壊から救うのですから、善になります。
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それはともあれ、生命体は、他の生命体を直接栄養源にしたり、あるいはそうでない場合も栄養源とするものが競合していますから、他の生命や幸福を奪うことによって、自らの生存と幸福を確保せざるをえないというジレンマがあることも事実です。ただし、そうしなければ自らの生命が維持できないという必要性からなされる場合は、悪であるといってもそれは軽く小さいとされます。それに対し、自らの喜びのために他の生命を奪うということは、大きな悪になるのです。あるいは、憎しみや、必要以上の貪欲から他者の生命を奪うことも、大きな悪です。
このように、さまざまな場合を細かく挙げれば際限がありませんが、基本的な考え方さえ分かれば、だいたいの判断はできます。むしろ問題は、そうした基準が理性では判断できても一時的に盲目にしてしまったり、悪と分かっていても自分を突き動かしてそれを犯させる憎しみや怒り・貪りの衝動に対して、どう抑制し、自らを悪の行為に踏み込ませないようにするかでしょう。仏教で、どんな人にも性善・性悪が本来ともに具わっていると説くのは、こうした憎しみ・怒り・貪りも、理性や思いやりの心も、ともにすべての人間の中にあるということに他なりません。そして、それらの善・悪両方の心の働きを正しく見極め、悪を抑制し、善のほうを強める英知と生命の力を涵養すべきことを教えているのです。
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ウィルソン
総じて宗教は、人々を悪への誘惑に耐えさせ、人生を高度な道徳的・倫理的な標準に則って生きるための根拠を与えることによって、人間の内面的強さをもたらす源泉となってきたと私は信じています。しかしながら、道徳的な要請の標準には、社会によって途方もない隔たりがあり、また人によっても何をもって道徳上の達成とするかの尺度に大きな違いがあります。私は、この相違を説明するものとして、宗教を取り上げてもよいのではないかと思っています。
キリスト教でも、宗派の相違によって、人々の道徳的行為に違いがありますが、これは宗旨そのものに起因するものといってよいでしょう。たとえば、イギリスのような国においても(他の社会学的な要素も考慮しなければならないにしても)ローマ・カトリック教徒は、それ以外の人々に比べてはるかに多くの犯罪人を出しています。普通、クエーカー教徒は、道徳的水準が高いことで知られていますが、これも、この教派が個人の自律性を奨励してきたことに関係があるのかもしれません。
これにはまた、国によっても相違があります。アメリカには、イギリスに比べてはるかに多くの教会会員と教会参会者がおりながら、一人当たりの犯罪発生率は、はるかに高いのです。教会への参拝者数や会員数は、もちろん信仰の状況を示す限られた証拠にすぎませんし、犯罪も、不道徳ぶりを示す指標としては、最適の指標といえないかもしれません。しかし、それでも、ある程度の証拠にはなると思われます。
また日本では、人々は西欧のどの国よりもずっと高い道徳的・倫理的水準を示していますが、よく日本は非常に世俗化した国であるといわれますし、多くの人は名目上は宗教に帰依していても、きわめて皮相的な宗教心しかもち合わせないといわれております。これらの実例を、どう説明すればよいのでしょうか。
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池田
私は教授のように、さまざまな国の宗教の実態を見てはおりませんので、教授の提起された疑問にお答えできる立場ではありませんが、ただ、一つの解釈として私の考えを申し上げますと、欧米諸国の場合、キリスト教は絶対神の命令として道徳規範の原型が定められたといえると思います。なぜ、そうしてはいけないか?それは神が禁じたからである。なぜ、こうすべきか?それは、神が命じているからである。――このように、神の意思が絶対の基準であって、普遍的で人々が自ら判断できる道理がその基準になっていないといえる面もあるのではないでしょうか。
日常生活においても認められることですが、権威を背景にした命令は押し付けにすぎず、その権威への畏れがある間は人々も従いますが、権威が失墜し、人々が畏れを抱かなくなったときは、そうした命令は何の力もなくなるばかりか、人々は、むしろ命令に反する行為を取ろうとするようになります。教授が例として挙げられたクエーカー教徒の場合は、教授も言われているように、個人的自立の程度が高いこと、つまり、たんに外から神の命令として押し付けるのでなく、それが一人一人の心の中に内面化されていることに、その主たる要因があると思います。
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アメリカの場合は、そうした内面化が弱いことと、それとともに現実の社会があまりにも競争原理によっているため、道徳的規制力が弱いことが、犯罪や不道徳行為の激増を招いているのではないでしょうか。教会に参会することも、それだけやっていれば信仰の勤めを果たしているという受け止め方であっては、かえってそれ以外の所ではどんな放縦も許されるということになりかねません。教会で教わったことを現実の生き方の中に反映させることが大切なのだという受け止め方をしてこそ、信仰は本来の力を発揮するはずです。
日本の場合、宗教的にいえばきわめて世俗的で、日本人の宗教は、神道も仏教も、現実生活に関して道徳的教訓や命令は、一切していないといっても過言ではないほどです。ある意味では、それだけに、現実の生活そのものの中に、長い歴史によって培われた習慣が浸透していることと、単一民族(もちろん起源的には単一ではないにしても、歴史的経過の中で単一化してきたのです)の単一社会で、常に周囲の人々の評価を気にする習性が染みついていることからも、犯罪や不道徳的行為に対する規制力が非常に強く働いているようです。
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(注1)荀子(前二九八年?―前二三五年)
中国・戦国時代の儒学者。著書『荀子』二十巻において性悪説を唱え、礼によって秩序を正すことを主張した。
(注2)孟子(前三七二年―前二八九年)
中国・戦国時代の哲学者。孔子の思想を継承発展させ、仁義礼智の徳を重視し、道徳成立の根拠として性善説を説いた。また、民主主義的な要素をも加えた王道政治思想を主張した。孔孟と並称される。
(注3)原罪説
人間は生まれながらに罪の負い目をもつとし、人間の生得的な罪悪の傾向をアダムの堕罪(原罪・『旧約聖書』創世記)の結果によるものとするキリスト教神学説。
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