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日蓮大聖人・池田大作

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植物人間について  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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9  私のこうした危惧は、帰するところ、生存中であれ死に際してであれ、個人の尊厳が守られるかどうかということへの、拭い去れない疑念でもあり、懸念でもあるのです。私がこれまで仄めかし気味に述べてきたことから、あなたは私が何を懸念しているのかを、お分かりになるに違いないと思うのです。
 しかし、この問題のもう一つの側面は、これが、臓器移植の問題にも影響するということです。提供される臓器が、生存し続けるチャンスを現実に損なうことなく摘出できるようにするには、どの時点で提供者の死亡宣告をするのが適切かという問題については、いまだに論議が尽きないようです。
 イギリスの医師たちは、死にかかっている人間を実際に「実験」したことがあります。つまり、彼らのいう、臓器摘出の時点である「脳死」の後も、生命維持の器械を作動し続けて、心臓が実際に機能し続けるかどうか、また、生き返る可能性が少しでもあるかどうかを調べたのです。そして、彼らは、(私の理解するところでは)脳死以後には生存の可能性がまったくないことに満足しています。しかし、あなたがおっしゃるように、植物人間は「懸命に死と戦い、生きようとしている」のかもしれないのであり、その植物人間への関心と、臓器移植とは、ほんとうに矛盾しないのかどうかという疑問はどうしても残ります。
10  池田 死の判定基準として、心臓死を採用するか、脳死を採用するかという問題は、臓器移植の問題とも密接に関連しています。
 欧米では脳死説のほうが有力になっているようです。日本では一部、脳死説を主張する医師もいるようですが、一般的には従来通り、心臓死を採用しております。日本の医師たちが脳死説に疑念を示す理由の一つは、現在の脳波測定では、脳の深部、つまり脳幹まで捕捉することは困難であるということにあるようです。
 私も、脳幹の生を認め、その生を万が一にも切断しないためには、もう少し医学技術の発達を見守りながら、死の判定基準を考えるべきではないかと思っております。
 ただ、ある日本の専門医は、もし真の脳死が脳波によって測定できるようになった場合、はたして心臓死と脳死との時間的ギャップは残るであろうか、という疑問を提示しています。つまり、脳死は直ちに心臓死に移行していって、その間の時間的ギャップはあまりないのではないかというのです。
11  (注1)カレン裁判
 一九七五年、植物人間になったカレン・アン・クィンランさん(当時二十一歳)の死を巡って、クィンラン家と医師の間で行われた裁判。「尊厳死」(安楽死)を主張した両親の訴えは、翌年、ニュージャージー州最高裁で“死ぬ権利”が認められ延命装置が外されたが、その後もカレンさんは生き続け、一九八五年六月死亡した。
 (注2)植物人間
 思考・運動・知覚等の大脳機能が失われながら、呼吸・循環・消化及び排泄等の機能が保たれ、加療によってのみ生き続ける状態となった人。
 (注3)胎児性水俣病
 母親が水俣病に侵されてから生まれる嬰児の先天性疾患。水俣病は熊本県水俣湾周辺で発生した有機水銀中毒症。

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