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安楽死について  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  この“死ぬ権利”に関連して、“尊厳死”という論議があります。苦しみの生、植物的な状況の生は人間としての尊厳を損なうものであるから、意識が消失する前に、自由意志で自らの死を選択しておこうという考えに基づくものです。
 私は、たとえ任意性に基づく安楽死であっても、それを認めることはきわめて危険性が大きいと考えています。一歩間違えば、かのナチスが行ったような強制的安楽死へと転落しかねないからです。
3  ウィルソン ある人が、自分の愛する者が長期にわたる苦悶の末に死ぬのを目の当たりにしたとすれば、その個人的経験が、安楽死の問題に対するその人の反応に多大の影響を及ぼすのはもっともなことだと私は思います。これは、死がいまやまるで性的タブーででもあるかのように考えられるようになっている現代世界において――少なくともアメリカや、またある程度まではヨーロッパにおいて――特にいえることです。
 人々の態度に興味深い逆転が起こったのは過去五、六十年の間のことです。それ以前にタブー視されていたのは、生命の始まりに関すること、つまり、性や出産や、その他これに関連したあらゆる事項でした。ところが今日では、生命の終わり、つまり死がタブーになっているのです。これは、葬儀のやり方の著しい変化によっても分かります。以前、死は、社交的盛儀を行うべき出来事であり、死者は(キリスト教では逆の指示をしているにもかかわらず)生前に得ていた地位にふさわしい装いで埋葬されたものです。
 ところが、今日では、死者は大急ぎで始末されます。死に関連したかつての慣習は省略され、ときには無視されています。人々は死に当惑し、遺族に向ける言葉についてさえ戸惑うのです。ビクトリア時代のきちんとしたしつけを身につけた淑女は――イギリス人でもアメリカ人でも――性を忌み嫌い、その言葉を口にすることさえ嫌がるものとされていました。これとまったく同様に、われわれはいまや死を忌み嫌っています。死が社会的慣習としきたりの構造によって囲まれていた時代には、人間にとって死に直面することは、比較的容易でした。
4  現代において安楽死が支持されつつあることは、死という事実を屈託なく素直に認めようというよりも、むしろ逆に、死に関する当惑の別の側面が表れたものなのでしょう。そうした当惑のために、人々は要するに次のように言わざるをえないのです。――「死期の近づいている人には、さっさと死んでもらおう。それも十分納得のうえで死んでもらおう。残ったわれわれの嘆きが、なるたけ少なく、できるだけ短くてすむように」。
 安楽死を認めさせようとする現今の運動は、ヨーロッパにおいても日本においても盛んですが、この運動は、私にいわせれば、まるで各個人が自分のことについて、しかも自分に対してのみ、全責任を負うことを許してもらいたいという、現代社会の容認主義に(注2)対する多方面にわたる要請の、まさにもう一つの側面になってしまう危険があると思います。
 安楽死提唱者が好んで使う言い回しによれば、人間の“死ぬ権利”は誰人も否定できません。しかし、この種の言い回しを用いるとすれば、人間にはまた“死ぬ義務”もある、ともいえるわけです。社会は死によって、また死に関する一般化された期待の実現によって、成り立っているからです。
5  死は、思いがけないときに個人を突然襲いますが、われわれの社会制度は、一定の統計的死亡率であれば、そうした不慮の事態に対処する恒常的な方法をもっています。そこには、たんに死体の処理といった事柄に関することだけでなく、権利・財産・役割・地位などの再配分に関するものも含まれています。地位の継承と財産の相続は、あらゆる社会で整然と制度化されており、どの社会の運用においても欠くことのできないものです。
 ときどきあることですが、ある人がなかなか死なないために、継承・相続に関する社会的期待という点で、困難を引き起こす場合があります。そうした例は実際、非常に多いので、あらゆる先進社会では、事実上すべての公的にきちんとした役務について“予測死”という制度を取り入れています。私たちはそれを引退と呼びます。
 しかし、引退は選択性をもった死であり、個人の生活の私的・家庭的・精神的・レクリエーション的側面を侵害するものではありませんし、またすべきでもありません。一言でいえば、それによって感情のともなう、人間としての基本的な生活があまり左右されてはならないのです。こうした領域では、個人は引き続き他の人々に対して、また他の人々に関して、社会的な義務と責任を負っているのです。
6  こうした種々の点から見ると、死はいまもたんに個人的な事柄ではなく、社会的な事柄なのです。ですから、たとえ人間は「死ぬ権利をもつ」ということを認めたとしても、だからといって、その人が自分の死期を決定する権利をも必然的にもつ、ということにはなりません。これには親族も関係しますし、医師や世話をする人たちも、またそれ以外に、より広い社会の他の諸部門も関係することでしょう。
 私の見るところ、人生とは、たんに個人的なものではありません。むしろ、過去・現在・未来を含み、他の人々をも含む、社会に対する参加と義務の複合体です。自分自身の生命およびその消滅に関する個人の権利は、絶対的権利とは程遠いものであり、それはちょうど個人がその人生でどう振る舞うべきかが、決してその人自身の個人的な判断で決定されるものでないのと同じです。
 個人は、生きることを、またいかに生きるべきかを学び、そして他の人々とともに、時としては他の人々のために、いかに生くべきかを学びます。個人は、そうした教訓が、自分が生を享けたときやその生をすごしている間に当てはまるのと同様に、その生を離れるときにも当てはまるのだということを学ばなければなりません。
 したがって、私は、安楽死が常に、そして一様にいけないというつもりはありませんが、それを認めさせようとする現今の運動には疑問を抱いており、個人の生命は、その人自身のみで処理すべき事柄とは程遠いものだと信じています。
7  池田 たしかに人間にとっての死は、たんに医学的・生理学的な問題に止まらず、文化的・社会的側面をもっていると思います。一人の人間の死には、家族や親類や友人・知人等の、人間関係への影響が必然的に含まれています。また、自分の生命ならば自分で処理してもよいという考え方は、生命の尊厳の理念とは根本的に相反するのではないかと、私も思います。
 そこで私は、現在、安楽死(任意性安楽死)もやむをえないとして論議されている前提となる諸問題の解決にこそ、人智の限りを尽くし、努力を集中すべきであると考えます。同時に、私は、死に際して直面する精神的・実存的苦悩と、いかに対決するかということが大事であると思います。そして、死および死の恐怖と戦う勇気と安心感をどのようにして死にゆく人に与えられるか――そこに私は宗教の役割があるように思われます。
 死に際しての人間の苦には、生理学的苦痛以上のものがあり、相乗効果を発揮していると思われます。
 仏教では、人間苦を分析して、苦苦、壊苦、行苦に分けて捉えています。最初の苦苦は、肉体的・生理的苦痛です。第二の壊苦は精神的・心理的悩みです。最後の行苦というのは、行とは現象世界を指し、この世界での生命活動自体が無常である故に苦であると捉えるのです。
 人間にとっては生理的苦痛よりも、死を機縁として起きる心理的悩みのほうが大きいものです。自分や自分の仕事に対する評価を気にしたり、残していく家族のことを思い悩むものです。特に、仕事や家族に未解決の問題があった場合は、それを解決するまでは死ぬにも死に切れない気持ちになるでしょう。
8  さらに、死苦には、根源的な苦として、死という未知なるものへの不安・恐怖が加わってきます。ただひとり死と対決し、その恐怖を克服しなければならない、孤独なる戦いがもたらす苦悩――それが仏教でいう行苦です。
 今日、ペイン・クリニック(注3)はどんどん発達しており、やがては、どのような身体的苦痛でも除去することが期待できるでしょう。しかし、壊苦と行苦に対しては、身体的治療だけでは不十分です。
 私は、壊苦と行苦を患者が克服するために、家族や医療関係者の愛情ある援助とともに、宗教と、人間愛や慈悲といった宗教精神が重要な役割を果たしうるように思うのです。
 こうして、医学の進歩と宗教の援助等が相まって、安楽死を考えずにすむような“良き死”を招来させること――これが、望ましい解決法といえるのではないでしょうか。
9  (注1)安楽死
 助かる見込みのない病人を、苦痛から解放するために、薬品などの人為的な方法により安楽に死なせること。
 (注2)容認主義(パーミッシブネス)
 一般に認められている道徳上の定めを放棄することを正当化し、以前なら道義上非難されたはずの行為を積極的に容認したり、もしくは少なくともそれへの無関心を促すような性向をいう。
 「(注3)ペイン・クリニック
 痛みを和らげる治療医学の一部門。

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