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日蓮大聖人・池田大作

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国教の是非  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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7  ピューリタニズムは、カルヴァンの場合はジュネーブで、クロムウェル(注4)の場合はイギリスで、そしてまたアメリカのニューイングランド諸州において、神のもとでの共和国という理想に(必ずしも実際にではないにせよ)暗黙裡に献身する国家を生み出しました。そこでは、聖書が市民政府の統治原理の源泉となり、ほとんどその模範とされました。しかし、プロテスタンティズムやピューリタニズムに見られる、こうした宗教と政治の結合にもかかわらず、長期的には、それはまさに社会の世俗化と、宗教独自の神聖さの喪失という結果を招いたのです。国教はますます消滅への方向をたどり、ときには宗教上の役職が政治的活動の報酬として利用されるなど、政治的陰謀によって腐敗したこともあり、また、官僚体制に隷属するといえるような立場に身を落としたこともありました。
 そのようになってしまった宗教が精神的なイニシアチブを取りうるなどとは、もはや考えられないことです。したがって、宗教の復興運動が起こるとき、それは概して国教会のリーダーシップに対する挑戦であり、ときにはそうした教会構造の外でしか展開できないといわれるのも、あながち的を射ていないことではないと思われます。
8  宗教運動が政治権力に頼るとき、堕落の危険性が大きいとされるあなたの結論を裏書きするような諸例が、キリスト教の場合、たしかに数多く見られます。プロテスタントを国教とする諸国では、非国教徒が反乱を起こす例が見られましたし、ローマ・カトリックの諸国においても、国家及びその政治指導者たちと宗教的権威との結びつきが、一般庶民の間に不信や意見の相違を生じたとき、教会の混乱が見受けられました。後者の例は、ラテン・アメリカ諸国に、じつに多く見られます。
 宗教と国家の結合に対しては、おそらく今日では、政治家たちはもはやそれを有用なものとみなさなくなっています。また聖職者たちのなかにも、国家と密着することは、それがなければ避けられたはずの反対を誘発することが、ときとしてありうることに気付き始めた人々がいます。
 ローマ・カトリック諸国やイスラム諸国ではまだ少数の例外が残っているとはいえ、これらを別にすれば、今日、信教の自由を脅かすものは、宗教よりも、むしろ(共産諸国の)世俗主義的なイデオロギーであることのほうが多く、さらに、さほど明瞭に現れてはいないにせよ、たぶん本質的に世俗的な国家自体の権力が伸長したことによる場合のほうが多いのです。ますます広範囲に市民生活に介入し、公共計画の合理的な基準に従って任務や施設を統合しようとする近代国家の傾向は、公認された国教の煽動によって生じるものよりも深刻な形で、個々の宗教集団の実践に影響を及ぼす可能性があります。
9  (注1)ルイ九世(一二一四年―七〇年)
 フランス王。内乱を鎮圧して王室直轄領を拡大し、第七次及び第八次十字軍を起こして失敗したが、諸侯の勢力を抑えた。第八次十字軍遠征の際カルタゴで病死、聖者に列せられた。法典の編纂、ソルボンヌ神学校(パリ大学)の創立に貢献。
 (注2)エドワード懺悔王(一〇〇四年―六六年)
 イングランド王(在位一〇四二年―六六年)。即位前に長くノルマンディーに滞在し、ノルマン人によるイングランド征服の因を作った。信仰心篤くウェストミンスター聖堂を建立、敬虔なため「懺悔者」の称号を付せられ、聖徒に列せられた。
 (注3)リチャード・フッカー(一五五四年―一六〇〇年)
 イギリスの神学者。英国国教会の神学の基礎を作った。
 (注4)クロムウェル(オリバー)
 (一五九九年―一六五八年)イギリスの軍人・政治家。ピューリタン(清教徒)。一六四二年、ピューリタン革命の際、議会軍を率いて王軍を破り、王を死刑に処して共和制を布き、その後、アイルランド、スコットランドを討ってイギリス諸島を平定、後に独裁政治を行った。

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