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日蓮大聖人・池田大作

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宗教と人間教育  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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9  私たちは、技術と道徳面とが、はなはだしくアンバランスな世界に住んでいます。こうした状況の中では、あらゆる類いの得体の知れない機関が現れて、知恵や専門知識や情報、そして情緒面や精神面の健康を得る近道を教えようとするものです。しかし、こうした個人的な属性が育つには時間がかかるということ、それらは、献身的な教師が各個人の人格に忍耐強く植えつけて養成しなければならないものであることを私たちが思い起こすとき、そうした機関が見せかけだけであることが見破られるに違いありません。それらの属性は、好きなときに身に着ける一着の衣服のように、ちょいと買ってくるというわけにはいかないのです。それは、その人自身の一部とならなければならないものだからです。
 マス・メディアから、広告から、テクノロジーから、そして、即効薬の賄い屋から生じる影響の集積によって、教師の仕事は、ますますやりにくくなっています。しかし、これらは、教師の献身に対する外的な脅威にすぎません。あなたは、これに対する内的な脅威について述べられました。つまり、教師は、その役割にともなう役得を既得権益にしたり、地位や権威を失うまいと気を配ったりするようになりがちだ、という事実についてでした。
10  教師の新鮮さと献身度を維持するためには、まず第一に、後年、教師になる人々を徹底的に社会化することが必要だと思われます。彼らの将来の役割については、初めから予測しておかなくてはなりません。現在の生徒にこのことを気付かせる立場にある教師は、生徒もいつかは教師になるのだということを予測することによって、初めて自らの教師としての任務を立派に果たすべく、さらに献身を深めていくことでしょう。
 教師は、たぶん他の大部分の人々よりも、定期的に、自分を生徒の立場に引き戻してみる必要があるでしょう。このような役割の倒置は刺激的な経験となり、鈍った知覚を再燃させ、生徒であるということはいったいどういうことなのかを、教師に思い起こさせることができます。おそらく、この問題の解決法は、教師自身を教育し、再教育する中にあると思われます。教師は、自分たちもまだ――ときには自分たちの生徒から――学んでいる立場なのだ、ということに気付く必要があるでしょう。
11  (注1)舎利弗(S’a^riputra)
 釈迦十大弟子の一人。マカダ国・王舎城外の那羅村の生まれ。釈迦の声聞の弟子の中で智慧第一と称された。
 (注2)数息観
 呼吸を数えて乱れた心を整える観法のこと。小乗仏教の修行法である五停心観の一つ。「しゅそくかん」とも読み、持息念ともいう。
 (注3)不浄観
 肉体の不浄を観じて貪欲の心を止めること。

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