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日蓮大聖人・池田大作

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現代における共同体の意義  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
10  ウィルソン 現代人は、地域共同体がもたらしてくれる安心感を必要とし、また、いかなる状況においても差別なく平等に扱ってもらいたいという欲求があり、その両者の間にはさまれて苦悶しているという状態にあります。
 近代都市の非個人的な環境の中では、人々は、往々にして、まるで道具ででもあるかのように、つまり目的そのものではなくて、たんなる手段であるかのように扱われていますが、しかし、少なくとも彼らには、人間としてある種の最小限の尊厳が認められています。そのかぎりでは、彼らも、すべての人が平等に扱われているという認識のもとで行動できるかもしれません。しかし、他方、人々は、往々にしてたんなる非個人的な平等性を超えた、独自の人格として扱われたいと望むものです。自分が特別視され、情緒的に満足するような環境に浸ってみたい、大事にされたい、人々の中に入っていって深い結びつきを体験し、価値観や目的観、慣習やしきたり、一般的な世界観などを共有したい、と願うものなのです。
 人間は、普遍的な倫理の客観性や公正さをありがたく思う反面、ときとして個別的な価値――自分や親族、同族にとっての個別の価値――が十分に表現されるような状況を、誰しも求めるものです。
 都市の発展、大規模化する工場や学校、病院などに見られるように、またマス・メディアの伸展によって示されるように、私たちが生活を営んでいる社会環境はますます非個人化していき、それにつれて、温かみのある、情緒的な人間関係を求めることがますます急務となることが予想されます。
 人々の社会参画の多くが、統合的・合理的・技術的な規定に支配されるようになっているため、それだけ人々は、ますます共同体生活の利点を求めるのかもしれません。
11  現代の世界で、共同体的な価値を提供することができる唯一の機関は、おそらく宗教集団であり、ことに強く帰依している人々からなる宗教集団――すなわち、通常の、深く考えることなく行われていく日常生活のパターンから、意識的に離れて存立しているセクト的集団――でしょう。
 ところが、こうした集団も、まったくさまざまに異なる道徳的・社会的行動の基本原則が行き渡っている、より広い社会的枠組みの中で機能せざるをえません。テクニカルな決まり事で動く非個人的で世俗的な社会体系と、情緒的な宗教的共同体の間の緊張は、依然として解消しないままなのです。
 現代の社会では、このような共同体を樹立したり維持することは、容易ではありません。そこでは、仕事上の要請、現代の社会・経済・政治の各組織、教育、福祉、そしてレクリエーションなどのすべてが、共同体的なパティキュラリズム(特殊主義)とは対照的な仮定に従って動いているからです。
 宗教運動にもまた、現代社会に支配的な組織や機構の形態に自らを適合させようとする、顕著な傾向が出てきています。この傾向は、アメリカで特にはっきりとしており「宗教の内的世俗化(インターナル・セキュラリゼイション)の過程」と呼ばれています。しかし、そうした過程にも、真の宗教的要素が存続するためには、これ以上は進めないという限界があると、私は思います。
 今日、宗教は、緊張した不安定な境界をともなう技術的世界の合理性と向かい合っています。その緊張はどのようにすれば解消されるのか、私たちには、いまのところ知るすべもありません。

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