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日蓮大聖人・池田大作

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人生の不条理  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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2  私は、仏法者として、現象的に現れた外在的原因は、じつは動機・機縁にすぎず、主たる原因は、その人自身が過去(現在の人生の中での過去だけでなく過去世も含まれる)に行ったことにあるとする教えを信じています。もとより、過去世の問題は客観的に認識も立証もできないわけで、信ずる以外にない問題ですが、私は、この仏教の考え方は、客観的立証はできないにしても、物事の因果をよく説明していると思います。そして、何よりも、人間に自己の行動についての責任感を教え、深い次元での自立をもたらすとともに、人間関係を、不信と憎悪でなく、信頼と尊敬に変えていく偉大な効果があると考えます。
 なぜなら、何よりも自分に責任があると自覚することにより、他人を恨むことはなくなりますし、各人が、未来のよい結果のために、その原因となるよい行為をしようと努力することによって、たがいに尊敬し合える人間になることができるからです。特に、仏教で説く、よい結果を生ずるよい行為とは、他の人を尊重し、他の人々の幸福のために貢献することですから、そうした行為を心がけること自体が、好ましい人間関係を現出することになるはずです。
 このような意味から、私は、仏教が教えるように、自分自身の中に基本的な原因があるとする考え方に立つべきであると思っていますが、この問題について、教授はどのようにお考えになりますか。
3  ウィルソン 人間の自我は、常に苦悩にぶつかるものです。「どうして私は、このような目に遭わなければならないのだろう」という疑問は、おそらく悩める者すべてにわたって共通の疑問でありましょう。
 キリスト教文化においては、そして、おそらくは仏教文化においても、この疑問は、次に「こんな目に遭うなんて、いったい私は何をしたのだろうか」という、道徳的な因果観を暗に含んだ疑問になります。こうした疑問が発せられるとき、キリスト教の場合は、この現在の人生での原因・結果の結合が想定されます。仏教の場合は、過去世における道義上の過失が原因である、と説明されます。
 しかし、こうした疑問を発し、その解答を追求するのは、なにも高等宗教の伝統の中で育った人々だけに限られたことではありません。これとまったく同じ質問が、未開社会の人々の間では、呪術についての憶測を引き起こすのです。故エヴァンズ=プリッチャード(注1)教授は、アザンデ族(注2)の人々の「自分の家の土台は、どうしてシロアリに喰くわれるのだろう」という疑問について、詳細に述べています。アザンデの部族民は、家屋崩壊の原因がシロアリであることは知っています。しかし、この知識は、それ自体では、「なぜ“自分の”家が?」という個々の部族民の疑問に答えるには、十分ではありません。
4  人間は、因果に関する客観的な知識と、因果が生じる経過への、本質的に主観的な答えとを一致させようとして、このため、宗教の言葉でしか答えられない疑問を発するわけです。人間は、客観的に見て十分な解答を与えられても、それだけでは主観的に満足しません。たんに物事が“いかに”して起こるのかを述べただけの解答では、大部分の人間にとっては十分でないのです。彼らは、あることが“なぜ”起こるのか、との疑問に対する解答を求めます。そしてとりわけ、自分自身が関わり合っていて客観的に見つめることができない場合に、「そのことがなぜ“自分に”起こるのか」という疑問への解答を求めるのです。
 一般的にいえば、われわれは、そうした疑問を起こさせる状況を認識することはできるでしょう。しかし、厳密に科学的な観点からは、その疑問に納得のいく解答を与えることはできないでしょう。おそらく、もっと重要なことは、ある伝統もしくはある文化が、どのような性質の解答を期待するように人間を仕向けるか、ということです。アザンデ部族民の場合の解答は、結局は破壊的な解答でした。人々を、おたがいに相手が自分に悪意を抱き、内密の手段で自分に悪事を働こうとしている、と疑うように仕向けるものだったのです。
5  仏教とキリスト教において伝統的に与えられてきた解答は、それよりも高度なものです。なぜ高度かというと、たとえ不道徳という原因と災いという結果の実際の関係が立証できなかったとしても――むろん、科学の要求に合致するような立証ができないということは確かですが――少なくともこれらの宗教は、個々の行為者自身の双肩に責任をしっかりと担わせているからです。
 これは、ある意味では、苦悩の重荷を担いやすくします。われわれは、何かの苦悩が自らの過ちによるものであることを知るならば、少なくとも、自分の苦悩を他人にぶちまけても無駄であるということを認めます。また、この考え方は、自らの行為に責任をもたねばならないという道義上の教訓をもたらしてくれますし、さらに、行為には結果がともなうということも教えてくれます。
 宗教的に規定された道徳律は、偉大な諸宗教では、大綱においてはたがいにそれほど違いのない働きをしています。つまり、この世で道徳的に振る舞えば、未来に(将来の生活においてであろうと、死後の世界においてであろうと)、よい状態が得られるということが信じられているのです。このことが、事実かどうかは別問題です。まして、これを厳密に試すことができないことも確かです。しかし、少なくとも、こうした“未来に補償される”という考え方は、人類全体に有益な結果をもたらすものです。この道徳律に従うならば、人間は、後になって都合の悪い結果が起こるのを避けるために、悪い行為を慎むようになるでしょう。
6  物事を原因と結果の関係に帰するのを信じることが、正しいことなのか誤ったことなのかは分かりません。しかし、少なくとも、それを信じることによって、人間は、人間同胞に対するある種の尊敬の念を身につけることは確かです。したがって、それを信じることは、われわれすべてが依存している社会の道徳水準の維持に役立ち、また、もし、それを信じていなかったならば犯すかもしれない害悪から、その被害を受ける人間同胞を守るという、目に見えない動きをすることになるわけです。
7  (注1)エヴァンズ=プリッチャード(一九〇二年―七三年)
 英国の社会人類学者。オックスフォード大学名誉教授。スーダンの牧畜民ヌア族の研究は有名で、ここから抽出したモデルがその後の社会組織研究のパラダイムとなった。著作は『ヌア族の宗教』『アザンデ族』等。
 (注2)アザンデ族
 アフリカ中部の南スーダンに住む部族。エヴァンズ=プリッチャードはアザンデ族を調査し、呪術と社会構造に関する組織的な研究を行った。

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