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日蓮大聖人・池田大作

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人生と学問 創価大学第2回夏季大学講座

1974.8.22 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

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9  それでは「『ものごと』の『こと』のほうこそ大切だ。世界は『こと』の集まりである」と主張したら、一体どうなるのでありましょうか。この問題について、実は二十世紀初頭以来の科学と最新の哲学とは「宇宙は『もの』の集まりではない。『こと』の集まり……むずかしくいえば『アフェアー(出来事)』の集合体である」と主張しているのであります。
 たしかに、世界は「もの」だけでできてはおりません。「もの」でない何かがある。エネルギーや、音や、光などは「もの」ではないし、社会や人類や数学の数も「もの」ではないし、恋愛も「もの」ではないと思いますけれども、若い諸君どうだろう。(笑い)
 また、ここ八王子は都心より西にある。この「より西にある」という位置関係や時間や空間や心理や法則も、いわゆる「もの」ではありません。こうした「もの」以外の存在は「もの」の在り方とは違って、存立している、つまり成立しているのであります。
10  「ものごと」のうち「もの」は存在しており「こと」は存立しているのであります。仏法では「本迹勝劣」ということを言いますが、「もの」と「こと」の本迹はいかに――となれば、仏法はもちろんのこと、科学と最近の哲学とは「『こと』が本、『もの』は述」という世界観に立っているようであります。時代は、そのように開かれつつあるように見えます。
 一例を挙げてみますと、私は今、原稿つまり紙というものを手にしておりますが、時間上、長期的視野に立って、この紙という「もの」をみると、地上の物質へ太陽のエネルギーが働きかけて木が育ち、人間がその本を切って加工して紙にして、用がすめば、焼いて灰にして捨て、分解して何かになっていくことでありましょう。
 こういう「アフェアー(出来事)」つまり「こと」の連続のプロセス(経過)の中において、ただ今という時点だけで言えば、紙という「もの」であるわけでありますが、しかし認識論的に言えば、存在は、長期的視野からみれば、すべて「こと」であり、「もの」とは時間を切断して短期的視野で対象をみた場合に生じた概念にすぎないのであります。
 つまり、「もの」という概念によっては、初歩的な範囲までは分かるが、その先は認識不可能になってしまいます。
11  仏法では「世界も衆生も色受想行識の五陰仮和合の法である」と教えており、「世界は『こと』つまりアフェアーの集合体だ」という最近の科学と哲学の主張は、非常に仏法の世界観へ接近してきていることを、最近、私はことに興味深く眺めている一人であります。
 以上、「人生と学問」について、断片的な、また分かりにくい内容であったかもしれませんが、私の思うところの一端を申し上げました。皆さん方の何らかの参考になれば幸いでございます。堅苦しい内容のものになってしまいましたけれども、熱心にご清聴くださいまして、心より御礼申し上げます。皆さん方のいよいよのご健勝をお祈りして、私の話を終わります。(大拍手)
 (昭和49年8月22日 創価大学体育館)

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