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日蓮大聖人・池田大作

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新たな民衆像を求めて 北京大学記念講演

1980.4.22 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

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5  また、最下層の貧農を扱った『阿Q正伝』(竹内好訳)で「しかしながら、われらの阿Qは、そんな弱虫ではない。彼は永遠に得意である。これまた、中国の精神文明が世界に冠絶する証拠の一つであるかもしれない」との簡潔な描写に接するとき、愚鈍な中にもしぶとく生きる雑草のように遅しい民衆の原像が鮮やかに浮かび上がってくるのであります。それは私の脳裏に、かつてパリの不良少年の心奥に「パリーの空気のうちにある観念から生ずる、一種の非腐敗性」(豊島与志雄訳)を見いだした、かのビクトル・ユゴーの目を思い出させるのであります。
 魯迅の文学運動は、必ずしも功を奏したとは言えないでありましょう。しかし、彼が生涯の課題としたものは、新中国においても、確実に受け継がれていると、私は信じております。
 先日、私が日本でお会いした作家の巴金氏は「私は敵と戦うために文章を書いた」と明言し、多大の感銘を与えました。そして巴金氏は「私の敵は何か。あらゆる古い伝統観念、社会の進歩と人間性の伸長を妨げるいっさいの不合理の制度、愛を打ち砕くすべてのもの」と述べておられました。私は巴金氏の風貌に、魯迅と共通する、民衆の敵と戦う″戦士″の面影を見たのであります。
 更に言えば「人民に奉仕する」「人民に服務する」というスローガンが、戦後の中国で一貫して掲げ続けられている事実に、私はひそかに刮目している一人であります。そこに、歴史を切り開く、新たなる民衆像の胎動が予感されるからにほかなりません。
6  また、このへんの事情は、皆さま方のご賢察にまつ以外にないのですが、例えば″実事求是″――事実に基づいて真理を追究するという言葉には、私が先に申し上げた「個別を通して普遍を見る」ということと共通する響きはないでしょうか。少なくとも私は″実事求是″とは、司馬遷の「是なのか、非なのか」との問いのパターンに象徴される、中国の精神的遺産の最も良質な部分、すなわち、現実そのものを直視し、そこから現実を再構成していく精神の在り方と、深く脈絡を通じているように思えてならないのであります。
 ともあれ時代は″大動乱″の時であります。故周恩来首相は、二十一世紀へ至る二十世紀の最後の四半世紀は最も重大な時期である、と述べておられました。それだけに民衆同士の、国境を超えた世界的な連帯がなされなければ、いつまた戦争の惨禍にさらされてしまうかわかりません。中国の科学史研究に巨大な足跡を残したジョセフ・ニーダムは、大著『中国の科学と文明』の序文で「今われわれはすべての人種の働く人びとを普遍的で協同的な共同体に結び付ける、ひとつの新しい普遍主義の夜明けにいる」と述べました。
 その「新しい普遍主義」の主役こそ、新たな民衆、庶民群像でなければならないでありましょう。そして、中国の長大なる歴史と現実の歩みは、そうした未来を開拓しゆく、計り知れぬほどのエネルギーを秘めているであろうことを申し上げ、私の話とさせていただきます。
 (昭和55年4月22日 北京大学)

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