Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アジアの平和と発展のために 『創大アジア研究』特別寄稿

1980.3.0 「平和提言」「記念講演」「論文」(池田大作全集第1巻)

前後
20  ヨーロッパの中世にあっては、神が「絶対」であった。その結果、神と人間、キリスト教徒と異教徒、人間と他の動物や自然との間に、越え難い障壁が設けられてしまった。近代のヨーロッパにあっては、人間が「絶対」となった。神の影こそ徐々に薄れたが、隔絶感、差別感だけはそのまま残った。人間同士の差別感は、植民地主義の温床となり、人間と自然との隔絶感は、地球を環境破壊の危機へと追いやった。中世、近代を通して、その基軸になってきたのが、ユダヤ・キリスト教的一神教であったことは言うまでもない。その世界観を揺るがしたフロイトの精神分析学を、ユングが「ほとんどはかり知れぬほどの意味をもつ歴史的矯正」と評価するのも、当然といえるであろう。
 津田元一郎氏によれば、キリスト教において、神と人間とを隔てていた障壁は、イスラムからインド、東アジアヘと東漸するにつれて、次第に取り払われていくという。イスラムは「一面、神と人間とのあいだを無限に隔てながら、神の正しい導きに従うかぎり、人間は神に著しく接近する」と考える点で「インドと西洋との中間に存在する二面的性格をもっている」
 また、インド思想にあっては「世界の本質への通路はわれわれ自身のうちにあり、自己の内奥に沈潜すれば、その道はおのずから自らの内に開かれる。神と人間とは隔絶したものではなく、人間自身、神の域に達しうる」。この指摘は、仏とは悟りを開いた人(覚者)の意であることにもうかがわれよう。
 そして津田氏は「神と人間との距離は、東アジアにおいていっそう、接近する」と言う。たしかにそのとおりであって、先述したようにトインビー博士の東アジアヘの期待感の中で、宇宙の神秘性に対する感受性や、人間と自然との調和を基調とする自然観が、重要なポイントを占めている理由もそこにある。
21  キリスト教的世界観を絶対主義であるとすれば、ユングが「東洋的叡智」の名のもとに予感していたものの輪郭が、そこから、おぼろげながら浮かび上がってくるのではあるまいか。私はここではその点については言及しないが、いうところの「相対主義」の極致とも考えられる仏教の″縁起論″などは、もっともっと掘り下げられねばならない論題であると思っている。ともかく、思想や宗教は、目に見えないようであっても、地下水脈のごとく流れ続け、文明の原型を形作っていくものだからである。トインビー博士は、従来、世界共同体創設のプロセスを、混乱期→世界帝国→世界宗教→世界共同体と考えていた。だが晩年に至って、乱世時代→世界宗教→世界共同体という順序に変えている。世界帝国を落とした理由は、単なる国際情勢の複雑化ばかりではあるまい。そこには、新たなる宗教的理念勃興への、熱い期待が感じられてならないのである。それはまた、伝統と近代化の融合という課題への、確かな土壌作りともなっていくであろう。
 (昭和55年3月 『創大アジア研究』創刊号)

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