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日蓮大聖人・池田大作

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永遠の生命〈2〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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11  川田 哲学者、あるいは真理の探究に一生をささげた人々、また医学等をもって人々を救うことに真摯に生きぬいた人々のなかには、そのような境涯にまでいたった人もいます。
 たとえば岸本英夫氏(宗教学者。一九〇三年〜六四年)は、「世界を忘れ、人間を忘れ、時間を忘れたかのような境地に没入するとき、人間の心の底には、豊かな、深い特殊な体験がひらけて来る。永遠感とも、超越感とも、あるいはまた、絶対感ともいうべきものである。この輝かしい体験が心に遍満する時、時の一つ一つの刻みの中に永遠が感得される。現在の瞬間の中に、永遠が含まれている」(『死をみつめる心――ガンとたたかつた十年間』講談社)といっています。
 現在の一瞬を大事にすることにより、そこに永遠のものを見いだすことができ、みずから永遠のなかに生きていることを感得できる、と一つの境涯を吐露しているわけです。
 池田 明治の文豪、高山樗牛(評論家。一八七一年〜一九〇二年)も、ニュアンスは違うが、みずからの仕事のなかに、自分が生きつづけることができると信じ、それを全うすることに命を賭けたのだね。たしかに、その真摯な人生への態度は立派であるし敬服に値する。またその結果得た境涯も、一つの確たるものがあったことはうかがえる。
 しかし、恩師戸田先生もいわれていたことだが、それは人生への態度としてはすばらしいことかもしれないけれども、普遍的な人生観としては納得しがたいものがあるといわざるをえない。
 それぞれの境地に達した一握りの立場の人たちはそれで満足できても、庶民の感情としては、特殊な境涯と思われる。
 北川 大多数の人々にとっては、そのような崇高な考えをもとうと思うよりも、現実社会における種々の煩悩のおよぼす力に影響されるほうが先ですからね。
 池田 そう。一回限りの生ということを明確に認識するようになればなるほど、煩悩の火は強いものとならざるをえない。抑えようとすればするほど、ますます欲望は強くなり、理性や良心を吹き飛ばしてしまうものだ。
 結局、一回限りの生だから立派に生きるということは、貴重な尊い人生観であるにはちがいないが、一般の煩悩多き人間に、死を乗り越えさせるだけの力をもたらすことは、きわめてむずかしいことではなかろうか。
 北川 また、たとえそのように割り切っていたとしても、いざその場に直面すると、その執着が異常なほど高まっていくということも考えられますね。
 子どものとき、夏休みが終わり近くなり、もう夏休みは来年までこないのかと思うと、無性に寂しく感じたことがありますが、それとは比較にならないものがあるのでしょう。フランスのモンテーニュ(思想家。一五三三年〜九二年)は「庶民の持薬はそれ(編注・死)を考えないことである」(『メンテーニュ随想録 第一巻』関根秀雄訳、白水社)とさえいっています。
 川田 それから、そうした考えをもつ人の特徴として、死の恐怖を極端に強く考える場合と、逆に死の誘いに引きずりこまれやすい人もいるようです。みずからを抹消することに強い誘惑を感ずる。いわゆる「死の衝動」というものが、本来人間にそなわっているのですが、それは裏返していえば、じつは生命の魔性の一つではないかと思うのです。
 池田 文学者などでも、死の誘惑に引かれる人は多いようだね。
 利己、貪欲という生命の魔性は、第六天の魔王の働きだが、それは私たちの日常生活を振り返ってみると、あらゆるところに巣食って生命を破壊する働きを示している。その最たるものが、生命を殺傷することです。
12  北川 みずからの仕事の完成を、死をもって明瞭にするとか、老醜をさらすことを恥辱と考えて、みずからを死に誘うというのは、かえって自己の生の価値を狭め、また断ち切ってしまうことにもなりかねませんね。
 池田 仏法では、このような「一回限りの生」という考え方を「断見」といって、偏った考え方としてしりぞけ、「輪廻」の思想を打ち立てたのです。しかし、ひとくちに永遠の生命といっても、そこには千差万別があり、発想によっては、かえって生を粗末にすることさえある。
 川田 たとえば、死後に天国といったものを設定すると、それで現在の生が充実するかというと、逆の場合も起こりうる。生を充実させることよりも、死への傾斜が強くなってしまうわけです。
 念仏の極楽往生の考え方がよい例ですね。西方に人類の理想とする桃源郷を設定して、それを渇仰させることにより仏法への心を起こさせようとして、かえって現実世界を「穢土」と卑下せしめ、民衆をして死を希求させてしまいました。念仏がもっとも広まった時代に、自殺者が急増したという事実がそれを物語っています。
 北川 それから、先ほど話の出ました「断見」に対して「常見」という考えも、一種の偏見ですね。
 たとえば、未来世においても、人は人に生まれ、犬は犬に生まれる。したがって、いかなる善業を積んでも、来世に善処に生まれることはないという考えが「常見」には含まれていますが、もしそうならこの世で努力をしても同じことだという、一種のあきらめ、あるいは安易感が生みだされ、結局、現在の生を貴重なものとして開発していく作業への発条とはならないわけです。
 池田 それは、根本的には生命の輪廻を、平面的なものとして考えているのです。平面上に書いた円のように、その上をぐるぐる回るのが輪廻ならば、いつかはまったく同じ所にもどってくる。ということは、現在の自分と同じ姿、境涯の自分が再現されることになる。とすれば、努力も何も必要ないではないか――ということになりかねない。
 ニーチェの永劫回帰の思想では、そこのところをどう乗り越えるかに苦慮したわけだが、私は生命の輪廻というのは、そのような平面的なものとする考え方ではなく、もっと立体的なものであると考えたい。円のように回転はしながらも、上下に展開する「らせん」のようなものとでも表現すればよいだろうか。
 永遠の生にはぐくまれながらも、そこに発展性をおびているのです。その立体的、動的な永遠の生命観をもたらす軸となるのが、因果論ではないだろうか。
 つまり、輪廻という考えに立ちながらも、みずからの生命のなかに、因果の法則がつらぬかれていると説くことによって、現在の因が未来に果として顕在化することを知り、現在の生を大切にし、しかも前向きに生きていくことができるのです。
 現在の生と断絶したところに未来の生があるのでもなければ、まったく同じ平面に未来の生が再現されるのでもない。現在の生の処し方の一つ一つが重要な因となって未来の生を決定し、醸成していく。
 しかも全体として把握するならば、永遠の生という、雄大な輪環を形づくっているのではないかと思う。このような永遠の生命観に立てば、人生観はどのように開けてくるだろうか。
13  川田 まず第一に、死というものを「本有」の現象として引き受ける勇気がわきでることでしょう。それは決して死を忘れようとするのではなく、またいたずらに恐怖するのでもない。生死ともに本来そなわっている生命輪廻の一つの現象と悟ることによって、かえって従容として生にも死にも直面し対決することができると思います。
 第二に、そのゆえに、現在の生をより大事にし、また自己の責任のもとに生きることができる。現在の自分の行動が未来の生を決定づけつつあるわけですから、自分を磨き、充実させ、宿命を転換しようとする生き方となってあらわれてくる……。
 北川 また利他の実践に生きることが、みずからの生命の形成にも不可欠のものとして、切実になってくるともいえます。国土世間を変革し、寂光土に仕上げていくことが、そのまま未来の自己を守ることになるわけですから……。
 池田 それだけではない。第三に現在の作業の一つ一つがみずからの栄養分となって蓄積され、それが現在の生の終わりによって雲散霧消してしまうのでなく、そのまま蓄積されて自己を拡大させていくのだから、現在の生を最高に謳歌して生きていくことになる。
 さらに、煩悩との戦いだけれども、煩悩と真正面から対決し、さらに進んで、煩悩を自在に駆使し、菩提へと変革しつつ、生命の昇華に用いていくことも可能になってくる。快楽主義やペシミズムにおちいることを防いでくれるわけです。
 しかもこのような生命観をもつことは、決して一部の知識階級しかなしえないなどというものではなく、すべての人々が、確たる人生観に立脚し、現実のこの人生を謳歌しながら、なおかつ真摯に歩みを進めることができる。このようなところに、仏法の永遠の生命観の優れている所以があると思う。
 北川 仏教の永遠の生命観というと、非常に虚無的な色彩が濃く、死の準備のための思想という受け取り方も一部にあるようですが、そうではなく、この現実の人生をもっとも深い意味で楽しみきって生きていく道を教えた宗教である、ということを認識する必要がありますね。
 池田 そのとおりです。たとえば、浄土宗等においては、この世は穢土であり、人生は一切が無常であると説いて、西方十万億土の極楽往生を教えた。そうした現世をはかないものとする思想が、仏教を暗いものとして受け取らせた要因の一つとなっていたでしょう。
 しかし、「法華経」の「衆生所遊楽」の一句をみてもわかるように、この世界は、本来衆生が、悠々と生を楽しみ遊戯しきっていくべきところである、と教えている。
 それには永遠の生命観を、幾多の生老病死との対決を通して勝ちとった真実の生命観であると確信し、現実社会と取り組み、その無限の展望に立って、現在の利他の作業に汗していかねばならないと思う。
 その確たる人生基盤を構築したとき、一つ一つの苦難が底知れぬ生の歓喜をもたらす栄養源となり、自己の完成、社会の変革につくす汗の一滴が、そのまま不動の人生行路を切り開く水源となっていくのです。
 私たちは対話を終えるにあたって、この雄大な生命観をすべての人々の胸中に息づかせていくことこそが、病める現代文明を蘇生させ、来たるべき二十一世紀を、生命躍動、生命勝利の世紀としていくカギになると確信し、今後もその至高なる作業をつらぬいていくことを誓い合っておきたい。

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