Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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永遠の生命〈1〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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14  北川 つまり、外界の縁に左右されることがほとんどなくなるわけですね。
 池田 そうなると、みずからの生命に刻みつけられた境涯が、そのまま生命全体をひたすようになる。
 地獄界への傾向性を示す生命体は、死の訪れとともにますます苦悶へとおちこんでいく。餓鬼界を基調としていた生命体ならば、飢餓感はいっそう激しく生命をさいなむことになる。畜生界を基底部として生を終われば、生命の「我」は、絶えず恐怖心にさいなまれる暗澹たる生命の境涯を味わわねばならないだろう。
 川田 修羅界の生命の人は、どのような状態でしょうか。修羅は「闘諍」とも「勝他」ともいわれていますが、死後の生命の状態は、おそらく孤独でしょうから、相手を必要とする「勝他」とか「闘諍」とかは、ちょっと理解しがたいのですが……。
 池田 おそらく、負けたときの屈辱感や、われとわが身を傷つけるような苦しみ――そうした生命感だと考えられる。もし、人界とか天界などの境涯をまっとうした個の生命ならば、死に臨んだときの肉体的な苦痛が薄れゆきさえすれば、「法身」は平静さを取りもどし、欲望をかなえられたときのような充足感が「三身」を覆っていくと思われる。
 二乗の境涯がもっとも強い生命の場合には、精神的な満足感とか、三昧境にも似た状態を持続できましょう。菩薩界を基底とする生命にとっては、死によっても尽きることのない慈悲の心に満たされているにちがいありません。勇気をもって死と対決し、死さえも克服しうる勇猛心の根拠を、生死の境で身をもって示しきるかもしれません。
 北川 いかなる極限の苦痛によっても砕かれることのない不動の信念と勇気を生みだす哲理とか宗教を、自己の死を足がかりとして説きあらわそうとするのでしょうか。
 池田 死におもむく者が、みずからの生命を賭けて、生者を動かすのです。他の人々の苦しみを除きたいとする慈悲心の横溢した生命の「我」にとっては、死は生と同じく、宇宙生命から授けられた試練の場であり、抜苦与楽の実践の場なのです。
 このような人は、かならず、みずから迎えようとする死を、宇宙生命のもたらす慈悲の行為であると実感するはずです。
 川田 だが、みずからの死を、宇宙生命の恩恵であると受け取るところまで、慈悲心を深めるには、よほどの生命力が要請されますね。
 池田 慈悲と勇気と生命内奥からの智慧の源泉が仏界です。仏界をはぐくみ、強め、基底部として定着させることに成功した人のみが、よく自己の死を見すえて、それを克服し、さらに生者の救済にと向かいうるのです。
 たとえ、生前、いかなる慈しみの心をもち、勇気ある実践を行っているように見えても、もし、それらが、自己を飾る道具にすぎず、人々の尊敬とか名誉とか権力を得るための手段にすぎないならば、死は、いつわりの慈悲と勇気を惜しげもなく奪い去ってしまうでしょう。
 死は、あらゆる人の本性を暴露してやまないのです。装いの思想、哲学、宗教をたたき割り、いつわりの感情と欲望と慢心を砕きさって、生命の奥のありのままの境涯をあらわにするのです。死にさいして、一生隠しとおしてきた醜い本性を、万人にさらす愚だけはさけたいものだね。逆に、死があらわにした本性が、生者を感動させるようでありたいね。
 川田 私も、そういう生涯をまっとうしたいと思います。死に瀕したときには、他の人々に助けを求めようとしても、また、生涯の行動を悔いても、もはや手遅れでしょうから、生きている間が大事ですね。
 池田 死せる者に、自己変革の力はありません。「三身」の発動性はすべてしりぞき、冥伏してしまっているのだから、自分で自分の生命を変えることは不可能です。
15  北川 仏界とか菩薩界ですと、変革する必要もありませんが、三悪道の苦悶が洪水のように自己をひたしはじめると、どのような人でも、救いを求めてうめき声をあげざるをえないでしょう。そのときになって、どのように後悔しても、苦悶の洪水はさらに強まるのでしょうか。
 池田 みずからが基底部としてつちかってきた境涯は、「有情」から「非情」へと入っていくにつれて、一段と強化されるのです。
 川田 ちょうど、雪だるまが坂道をころがりおちる姿に似ていますね。
 北川 それは、基調となる境涯が自己運動を始めて、雪だるま式にどこまでも強まっていくということでしょうか。
 池田 個々の生命自体の自己運動も大きな要素です。外界から他の境涯を引き出すような縁の働きかけも減少し、生命はみずからが築いた境涯のままに、生から死へと移っていくのです。
 しかし、死における基底部の強化は、生命自体の繊りなす流転にもとづくばかりでなく、宇宙全体との関連においても生じると考えられる。
 いうまでもなく、個々の生命体と同じく、宇宙生命もまた十界互具の当体です。宇宙には十界のすべてがそなわっている。このことについては「三世間」のところでくわしく論じあったから、ここではかんたんにするが、「有情」を、ひとまず私たちの生命体ととれば、私たちを取り巻く「非情」の環境は国土世間になる。
 たとえば、人間生命にとって、地獄の国土とは、「有情」の生存権を奪い去ろうとする環境であり、具体的には、人炎に覆われた大地とか、水爆の炸裂する国土とか、氷点下六十度にもおよぶような極寒の地などがそれにあたるでしょう。しかし、死後の生命は、空間的には限定された状態をとるわけではない。
 とすると、地獄界を基底部として死を迎えた生命体は、どのような姿で、どのように国土世間を感じているかというと、宇宙生命に融けこんではいるのだが、この宇宙自体がどこへも逃れようのない赤鉄の世界であるかのように感じていくのです。
 川田 そうしますと、日寛上人の「三重秘伝抄」の「地獄は赤鉄に依って住す」(六巻抄17㌻)等というのも、固定された赤鉄をその「依報」、「国土」としていくということではなく、この宇宙、世界を赤鉄と感じていく、と解釈するのでしょうか。
 池田 そう考えるべきです。たとえ、人界とか天界などの様相を示している国土であっても、その国土には、他の十界もすべてそなわっているはずです。ただ、冥伏しているにすぎないのです。同じ、その国土を天界と感ずるか、地獄と感ずるかは生命主体の生命状態によって、みんな異なる。
16  北川 私たちが生きているときでも、地獄の苦悶に責められていますと、他の人にとっては楽しい場所であっても、その楽しさを味わう余裕はないばかりか、すべてが苦悶を増す縁にさえなりかねません。
 池田 その人の生命状態に応じて、環境も十界の変化を示すものです。それでも、生きているときには、地獄界を基調としながらも、種々の縁に対応して、他の境涯をもあらわしうるだろうが、死は、その生命を基底部に縛りつけてしまうのです。
 たとえば、地獄界を基調とする生命も、生きているときには、少しは楽しいこともあったにちがいない。ところが、死の状態においては、宇宙全体が苦しみの暗雲に覆われたようになり、地獄の責めがとどめようもなく襲いかかってくるのです。いいかえれば、全宇宙が地獄と化し、個の生命を責めさいなむのです。ここまでくれば、自己の生命に地獄を実感するというよりも、宇宙生命の地獄界のなかに自己を感じると表現したほうが、真実に近いようです。つまり、私たちの生命自体が、宇宙の地獄界の分身となるのです。
 川田 他の境涯についても、同じように推理をすすめられますね。
 池田 日蓮大聖人の「曾谷入道殿御返事」にも、一つの例として「例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり」と明記されている。
 人界の生命が水と見、天の境涯では甘露と映る恒河の水を、餓鬼の生命は、自己を焼きつくす貪欲の火と感ずるのです。これは餓鬼、天、人を代表として述べられているが、この原理は、他の地獄、畜生、修羅また声聞以上の四聖についても、同じことがいえるわけです。
 川田 六道は外界からの縁によって感ずるものですから、能動性を失った死の生命においても感ずるということは理解できます。しかし、声聞以上の四聖はみずから能動的に開拓することによって得られるものですから、能動性を失っている死の生命においては、どのように考えたらよいのでしょうか。
 池田 実感し、体得するのです。二乗界の生命の「我」は、死とともに、宇宙に見いだされる法則そのものとなるからです。つまり宇宙をつらぬく無常という法則の分身が、二乗を基底とする死の生命なのです。さらに菩薩界にいたれば、みずからが融合した国土のすべてが、慈悲を行う実践の道場と化すのです。
 菩薩の生命は、宇宙生命の菩薩界と合一するはずです。宇宙の菩薩界の体内に入れば、国土にみなぎる抜苦与楽の慈悲力を会得するでありましょう。もし、ある生命が、仏界をはぐくみつつ死におもむけば、宇宙生命の源泉であり、万物を支える根源の当体に合流するでしょう。
 そのような生は宇宙の森羅万象の流転を、仏の所作と見ることができるのです。それは、自己の生命が寂光土としての国土自体になっているからです。
 仏界の生命は、死の状態のままで、灼熱の大地の底にも、極寒の氷山の奥にも、荒れ狂う大海の基底にも、さまざまな欲望とエゴが交錯して充満する人間社会の中にも、四季を織りなす自然の法のなかにも、宇宙生命のかぎりない英知と慈悲の発動性を会得するのです。

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