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日蓮大聖人・池田大作

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人類誕生の条件  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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12  北川 そうしますと、墓を花で飾る儀式はたしかに、死者の冥福を祈る気持ちをあらわしたのでしょうが、その底には生と死をともに支える宇宙の実在といったものの考え方があり、それが前提となって何らかの気持ちをささげる行為となったともとれますね。
 池田 そうです。それでこそ、死は一種の眠りであると信じた彼らの心情を、より正確に理解することができるのではないだろうか。つまり、死は、みずからを生みだした本源的な生命への帰還であり、無限の過去から、生きとし生けるものの生死流転を織りこんで流れゆく宇宙本源の生命に憩うことであると、心の底から信じていたのです。
 川田 宇宙生命との邂逅への信念は、もう知性や倫理の領域さえも乗り越えていますね。
 池田 そうです。宗教的な心情であり、いや、宗教そのものであるといっても過言ではないでしょう。多くの学者が、ネアンデルタール人の心には宗教的な衝動がうずいていたといっていますが、私にはさもありなんと思えるのです。
 北川 つぎに、現在の人類つまリホモ・サピエンスの直接の祖とされているクロマニョン人に移りたいと思います。
 クロマニョン人は、じつにすぐれた芸術作品を残していますが、そこに託されているのは宗教的な情想であり、祈りであるといわれています。
 池田 クロマニョン人は、アルタミラ洞窟の壁に描かれたバイノン(野牛)の絵をはじめとして、多くの絵画と彫刻を残しています。彼らの芸術的な才能もさることながら、数々の作品にあらわれた、複雑な精神生活には目をみはるものがあるようです。
 川田 洞窟芸術は、宗教的な儀式に使われたと聞いています。たとえば、狩猟にいくまえに、一種の儀式を行い幸運を祈ったというのです。
 池田 呪術的な儀式だったのかもしれないね。呪術は、幸運への願望をあらわしている。とともに、原始的な形をとってはいるものの、獲物となる生物の生命にみなぎる大自然の力への畏敬の表現であり、それとのかかわりを求める人々の心情が託されていることも見逃せないでしょう。
 呪術だからといって、すぐ幼稚だ、原始的だと片づけるのは誤りです。呪術として表面化した古き時代の人々の心の底に渦巻く情念を無視すべきではないでしょう。
 川田 ネアンデルタール人とかクロマニョン人の生命に宇宙生命の脈動が、彼らなりの方法でうつしとられていたとの考察は、よく理解できましたが、オーストラロピテクスあたりではどうでしょうか。
 池田 先ほどもいったように、二百万年ほど以前ともなれば、心の内面を察知できるだけのデータの発見はきわめてむずかしい。ほとんど不可能だとも思われる。
 おそらく三百万年以前の人々の場合、無意識的な衝動によって何らかの形で、宇宙生命なるものの脈動を感じていたことも考えられます。
 たとえかすかな光であろうと、また、いかに微弱な胎動であろうと、″知性の人″が姿をあらわしているところには、死に対する自覚が胸をよぎっていく。また、もし、道徳、倫理の内なる法則にめざめていたとすれば、その源を求める知恵が動きだす。この生命の厳とした法則にあてはめれば、人は人となるとき、すでに、宗教的な心情がうごめいていなければならない。
 いや、人間生命の実なる相に思いをめぐらせば、人の心に、″知性の人″が輝くことと、本源なるものへの肉薄を求める宗教的な心の胎動とは、まったく同時でなければなるまい。ただ、知性、倫理などの発動は、外界に、道具や言葉として表現されるゆえに、後世の人々が、その証拠を発見することができるのに対して、宗教的な衝動はあくまで内面的な出来事であるために、実証を得ることはきわめてむずかしいだけの相違であろう。
13  川田 最後の質問になりますが、人類誕生の時点で輝きを増しはじめた知性、理性、倫理などと、宗教的衝動との共通の源泉は、どうやら、当の宗教心が帰っていくであろう本源的な宇宙生命自体である、と結論できそうですね。
 池田 人間生命の側からいえば、知性などと宗教的心情の胎動は同時です。しかし、万物の底を流れる悠久なる宇宙生命に考察の視点を移すとき、人の生命にあらわれつつも、瞬時にして帰還を求める宗教心こそが、生命の内奥からの知性の発現を呼びおこす力であり、倫理の法則をわきあがらせる泉であることが明確に理解できるでしょう。
 それは、人間の生命において、知性、倫理、良心よりも、宗教的な心情のほうが、より深く、そして、より本源的な位置を占めているからです。いいかえれば、人間が人間としての道を歩むべく、人類への″扉″を開く″鍵″は、知性でもなく、良心でもなく、じつに、宇宙本源の生命からわきおこる宗教的な衝動であり、生みの親への復帰を希求する生命奥底の宗教心だと推測するほかはないようだね。
 私は、先ほど、人間は、知性を駆使することによって人間になるといった。それにまちがいはないのだが、ここまで考察を深めてくれば、次のように主張しなおさねばなるまい。つまり、人は、宗教心を宇宙生命から強力にくみとることによって、初めて人となる――と。
 北川 もし仮に、この宇宙空間のなかで、ある生物が、宇宙本源の生命にふれ、そこから、宗教心をくみだすだけの条件がととのった場合、人間的な生命を得るのでしょうか。
 池田 宇宙のいずこにおいても、生きとし生けるものの生死流転の底に、宇宙本源の生命が息づいているかぎり、その生命にふれるところには、宗教的心情の胎動があり、偉大なる進化の飛躍がうながされるはずです。地球上における場合には、もっとも原始的な生命が姿をあらわしてから、三十億年にもおよぶ生物進化の基盤があった。その底には、たえず、宇宙本源の生命の脈動が波打っていたと思う。
 そして、人類の誕生において、宇宙生命の波動は、かつてないほどの高まりをみせ、さまざまの外的な条件を受けいれつつ、しかも、それらの条件に触発されながら、生物進化を人類進化へと飛躍させていった。この事実を、人間生命の側から見れば、宇宙本源の生命への、深く強烈なきずなを結んだことを意味する。
 こうした生命飛躍、人間的生命誕生への基本的な原理は、たとえ、人々の探索の手が届かぬような大宇宙のはてであっても、普遍的なものとして通用するのではなかろうか。本因となる宗教的な力と、さまざまの条件との、密接不可分の関わりあいのなかから、知性、倫理の″人間性の火″をいだいた生命が産声をあげていくのです。

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