Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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生と死〈2〉  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

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11  北川 そこで、もう一つだけ疑問を解いておきたいのですが、「総勘文抄」の引用した最後の部分に「芥子けしの中に入るれども芥子も広からず心法も縮まらず虚空の中に満つれども虚空も広からず心法も狭からず」とあります。
 つまり、生命は、芥子粒のごとき極小のものの中に入れても、芥子が広がったり心法が縮まったりするようなことはない。逆に、虚空に遍満させても、虚空が広すぎるということもなければ、心法が狭すぎるということもない――こういった解釈になりますが、とうぜん、こうした″心法″の特質、存在のあり方は″空″の概念をもって考えなければなりません。
 むろん″心法″は、空間的な概念だけではとらえきれないものであり、時空観をも超越した妙なる実在であるとの意味でしょうが、この文を拝しますと、その本質は時空を超えたものでありながら、時間、空間の現象世界の領域へと顕在化してくるのだという仰せのように思われます。
 ともすれば、私たちは、宇宙の源流といい、生命の内奥といい、それらを″空″としてとらえるとき、きわめて静寂な、深い海の底のような感覚で受けとめがちですが、そうではなくて″空″としての実在も、生命エネルギーの動きに満ちている――こういう実感をもつことが、真実に近いのではないかと思うのですが……。
 池田 人はよく死の静けさと表現するが、より正確には、その死もまた、生と同じく無限の変化に富んだものと考えるべきでしょう。なぜならば、私たちの生を支え、色心を維持し、はぐくみゆく根源なるものは、同時に死の営みをも支えているからです。
 川田 いま「死の営み」という言葉を使われましたが、そうしますと、死は休息であり、苦も楽もなにもない静けさそのものと考えるのは、錯覚であるということになりますね。
 池田 私たちの日常生活は、数奇な運命の糸がからみあっているものです。これを″生の営み″と表現すれば、死にも独自の営みがあり、もし譬喩的な表現を許してもらえば、死せるものとしての生活があるのではなかろうか。
 むろん、安らかな死をエンジョイしている主体も少なくはない。だが、ちょうど、夢にも快いさわやかな性質のものもあれば、悪夢にうなされつづけて、たっぷりと眠りの恐怖を味わわされることもあるのと同じです。恐怖、不安、悲惨、そして、魂の中心部まで凍りつくようなおののきが、これでもか、これでもかと、執念深く追いかけてくるような死の営みも、ありうると考えるべきです。
 私たちの周囲には、各種の電波が流れている。世界中の国々からの、千変万化の種々相を示す電波が、あたかも虚空にとけこんだように流れきて、流れ去る。それらの電波には、聞く人の心をなどませる名曲が託されていることもある。あるいはジャズを奏でるそれや、魂のふるさとへと人の心を誘う民謡のこともある。爆笑を巻き起こすコメディアンのジョークがのっている電波もあるし、陰々とした恨み声を響かせる波長も存在するであろう。
 だが、これらの電波は、たがいに排除することもなければ、重なりあうこともない。名曲の背中にジャズがのっかり、そのうえに恨み声がしがみついていたなどということはない。両腕に民謡とジョークをかかえているとなれば、まるで怪談だね。
12  北川 たしかに、さまざまな波長の電波が空間にとけいって、それを私たちの肉眼では見いだすことはできません。
 池田 しかし、受信機をセットしたり、テレビのチャンネルを回すと、あざやかな映像が映しだされ、言葉や音楽が聞く人の耳をうつ。受信装置をセットしなければ、それは目に見ることも、耳で聞くこともできないが、電波が実在していることはまちがいない。
 この実例を参考にしてもらえばわかりやすいと思うのだが、たとえ死の状態を示す生命といえども、苦や楽や悲しみ、喜びを感じつつ、そこに脈動していることは疑いない。つまり、悩み苦しむ「我」もあれば、歓喜のリズムのままに流動する「我」もある。この世だけではあきたらぬとみえて、死の領域に入ってまでも、貪欲の炎に焼きつくされるものもいるでしょう。
 こうした、万物の基底部をなす″心法″に支えられつつも、生とはまた異なったあり方での死の営みを、「本有の死」というのではなかろうか。
 繰り返すようだが、私たちの生命は、生と死のいずれの相をあらわす場合にも、宇宙生命にどっしりと根をおろしている。地獄の生の奥深く、仏界の生命が息づくように、地獄の死の底流にも「妙法」のエネルギーが渦巻いている。そしてまた、「妙法」に支えられながらも、三悪道を脱しきれない生の営みがあるように、宇宙源流の活力をくみとれず苦界に沈む死の主体も、厳として存在する。このような実相を、厳父の慈悲をたたえた仏の直観智は、あざやかに照らしだしているのです。それはまさしく、生きとし生けるものの生命淵源への仏の洞察智の照射であり、死せる営みへの覚者のさしのべる救済の手ではなかったろうか。
 生者には生けるものとしての営みがあり、死には死のあり方があると、私はいった。生に「本有の生」があれば、死にも「本有の死」があった。生者にさしのべられた仏の手は、そのまま死せる当体ヘの救いになりうるのであろうか。それとも、智者の心には、「本有の死」に特有な、苦悩を解脱する手段が用意されているのであろうか。
 私たちの生命論も、永劫に流動する生死の輪廻に立ちいたった以上は、「本有の生」と「本有の死」のあり方の相違と共通の分野を、さらに深く、そして詳細に考察してみなければならないようだ。

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