Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

個性化の原理  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
15  北川 その点に関してですが、先ほどの「三重秘伝抄」の問答のうち、答えのほうに「今経の意は具遍を明かす」とあります。この場合の、今経とは「法華経」ですが、その意からすると「一念三千」の哲理は、「具」すなわち″そなわる″という側面と、もう一つ、「遍」――あまねくゆきわたる――という側面の、二つの視座から明かしうると解釈できます。そのあとに、みごとな譬えを引きつつ、法界の全体が一念に具し、また、一念の全体が法界に遍しと記されています。
 法界の全体と述べているのは、大宇宙生命そのものをさすと考えられます。そうしますと、私たち自身の「一念」に、宇宙全体をも創りだし、脈動させる根源的な力と、それから各種の法則が組み込まれている事実については、ある程度わかるような気がします。それは、私の「一念の心」も、宇宙の源流にまでいたる内奥においては、宇宙生命を支える根源力と一体となり連動していることを直視すれば、納得のいくところだからです。
 でも、それにもかかわらず、私の「一念」が、宇宙全体にあまねくゆきわたる、となると、考えこまざるをえません。
 池田 具体的に考えてみよう。たとえば、私たちの「一念」の所作を、隣人に向け、地域を覆い、さらには、日本という国土から人類へと広げていくためには、いかなる発動力というか、境涯を体得すればよいのだろうか。
 川田 宇宙大の発動性をともなった境涯ですから、十界論からしますと、ずばり、仏の生命をあらわすことです。十界互具論では、仏界を基調とした生命活動です。
 池田 仏の生命の涌現につれて、宇宙源泉の慈悲とか、英知に彩られた如是力が、その活動を開始し、仏界の「因果」を強化しつつ、私たち自身の生命が、仏界の衆生となる。仏界の衆生は、それぞれの生命にそなわった五陰を躍動させ、本然的な個性を最大限に輝かせながら、自己の身体をみごとなまでに統一し、崩れることのない幸福を獲得するとともに、他の生命体をも、仏の生命のなかに包みこんでいくのです。
 地獄の衆生も、六道輪廻の「因果」に染められた衆生も、二乗の慢心におもむきがちな生命も、私たち自身の生の奥底から流出する″蘇生の水″にひたされることによって、すべての人々の「一念」に内在する仏界への力が触発されるのではないでしょうか。仏界の触発が、絶え間なく、しかも、あらゆる方向から行われるにつれて、私たちの周囲の人々の境涯が徐々に変革し、やがては、菩薩界とか仏界とかを基調にした生命活動が、いたるところに現出するでしょう。
16  北川 まるで、核反応みたいなものですね。初めは、ほんの少しの核分裂が、起爆剤の役目を果たし、それが、ある一定の状態に達すると、こんどは、一挙に、すべての核が分裂し、あの驚異的なエネルギーの開放となります。核分裂の連鎖反応ですが、善悪を別とすれば――利用の仕方によって、善にも悪にもなりますので――一つの思索の参考にはなると思われます。
 池田 仏界を基調とした五陰の働きによって、他の生命体の仏界を触発することができるのです。仏界の触発は、宇宙にまで遍満しようとする仏の生命自体にそなわった特性に支えられて、かならず、仏界と仏界との連鎖反応をひきおこすと考えられる。
 最初は、仏界の衆生にも、起爆剤にも似た役割が課せられるかもしれない。だが、一人の生命から、とめどもなく流れ出る″蘇生の水″が、家庭という国土をうるおせば、家族を構成する人々の基底部にも、変革の波がわきおこるでしょう。
 一つの家庭が、慈悲と英知の力強い光明をおびてよみがえれば、その家庭からわきだした仏界の″水″は、あるときには職場へと広がり、また、あるときには隣人へとそそがれ、さらには、教育の場、政治の場、産業の場をもうるおしつづけるのです。その水のおよぶところ、枯死寸前の草木が水を得てよみがえるごとく、砂漠を旅するキャラバンの群れがオアシスのほとりで憩うごとく、すべての衆生とすべての国土が、生を謳歌し、生きることの歓喜を味わいつづけるのです。
 家族と家庭、隣人と地域、職業人と職場、医師と看護婦と患者と病院、教育者と子どもたちと学校、法律関係者と法廷、政治家たちと議会――それらのすべてに″慈愛の水″がそそがれれば、地域も、病院も、法廷も、議会も、また、その国土に生を営む衆生の集団も、それぞれの特質とか個性を示す生命体として、仏界を基調にしての脈動を開始するのではないかと思う。
 さらには、こうした衆生の集団と国土が、こんどは、新たな起爆点となって、日本の大地を揺るがし、ベトナムの国土を変え、一波が万波を呼びつつ、人類と地球をも、死と絶滅への道から救いうる方途を打ち立てうるのではなかろうか。
 ともあれ「一念三千」の実践には、無限の階層をなした衆生と国土を、その基底部から揺り動かし、仏界の国土としての常寂光土を築きあげていく五陰の行動を、いかなることがあってもやめまいとする、悲願と称するにはあまりにも光輝に満ちた理想と決意がこめられている。そして、仏法の、この哲理は、「一念三千」の当体としてありつづけようとする信仰者の生き方に、すべての生ある者の仏界を触発する起爆者としての役割を託しているのではないかとさえ、私には思われてならないのです。

1
15