Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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生命はいかに運動するか  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
11  北川 そこで次の「如是果」ですが、これは如是因と一対になっていて、先に少しふれたわけですが、この因と果が一瞬の生命に含まれているとしますと、どのような差があるのでしょうか。
 池田 「三重秘伝抄」に「前念・後念」あるいは「習因・習果」と立て分けてあるけれども、これは時間的な隔たりをさすものではない。一つの生命の活動をひきおこす方向性を見つめれば因であり、一瞬の生命がのちのちの生の傾向性を示しているととらえれば、果といってよい。
 いずれにしても、生命の内奥に空の状態でそなわっているのだから、両者に時間的な差異はなく、その意味で因果倶時となる。もちろん、現象面にあらわれてくるものを考えれば、それは異時とならざるをえないが、表面的な結果としての現象をもたらす内面的な果は、すでに一瞬の生命のなかに、因と同時に存在しているものです。
 たとえば、人を軽蔑したとする。その因は、その念を起こした瞬間に、果となって刻印されているのです。その表面的な業果は、どういう形であらわれるかわからない。しかしどういう形式にせよ、いつかは表面にあらわれざるをえないものとして、生命の内奥に刻みこまれているのは、疑いないのです。
 北川 その表面にあらわれる現象というのが「如是報」なんですね。「三重秘伝抄」に「習因習果等の業因に酬いて、正しく善悪の報を受くるは是れ如是報なり」(六巻抄18㌻)とありますが、この報を果としてみるならば、先の因果は通じて因となるわけですね。
 生命の内奥に刻まれた因果が因となって、色法の世界にあらわれてくる。これが如是報であり、したがって、報はただ色法にあらわれるわけです。
 川田 この報の場合は、現象世界ですから、物理的あるいは科学的な因果の法則にしたがうと思われます。したがって、時間的、空間的な要素を含んでいるわけです。ですから、因果異時といいますか、報というのは、瞬時にあらわれるとはかぎらない。
 しかし、ものの変化というのは不連続のようにみえても、マクロの世界では、よく観察すれば、連続的なものです。素粒子などの世界ではそうはいきませんが……。
 したがって因果異時といっても連続的な変化なのだから、その瞬間に、報としての変化もあらわれているのではないか、と思えるのですが……。
 池田 如是報も一瞬の生命に含まれる以上、そう考えるのが正しいだろうね。ただ観察の仕方によって、それが精密に把握できないだけだろう。人間の身長が、子どもから大人になるにしたがって伸びるのも、毎日毎日を比較していてもわからないが、一年たち、二年たち、そして数年たつとまったく比較にならないほど違ってしまう。しかし、それは、大げさにいえば、一秒一秒ごとの連続的な変化の積み重ねだから、如是報というのは、瞬間瞬間の蓄積のうえに、時間的経過を経てあらわれてくるものと考えられる。
 総括していえば、「因果」は心法で「報」は色法だが、色心不二であるがゆえに、「因果」は即「報」になる。つまり「因果」のあるところかならず「報」がある。「報」は「因果」の結果としてあらわれるのです。
12  北川 そこで、冒頭にあげた例を考えてみますと、戦争で負傷した青年の如是相は、ほとんど用をなさないほど傷つけられているわけです。そして如是性も、最初は活動していないのと同じほど鈍かったと考えられます。如是体はその青年自身の生命であり、外見は変わっても主質そのものは変わらない。こうした相性体の青年のもつ如是力は、どうだったのでしょうか。
 池田 肉体的な部分に関するかぎりは、いわば極限状態におかれていたと考えられる。能動性・主動性をたもつことが困難だったからね。しかし、みずからの生の証を得たいという激しい衝動は、かえって常人よりも強かったのではないだろうか。
 したがって、わが身が受けいれることができるわずかな如是縁も、最大限の増幅をして受けとめ、その反作用としての如是作があらわれていったのでしょう。そこに働く因果は激しい変革の渦を巻き起こし、地獄・餓鬼の底辺の生命から、最後は六道を出るところまでいったのではないだろうか。
 人間生命のこうした激しい変容をとらえるには、たんに静的に生命を見つめるだけではなく、外界からの刺激、それへの反応の仕方、その生命独自の因果等を見きわめないと、把握しきれないものです。そういった意味で、十如是はきわめて合理的な生命観だね。
 北川 ちょっと話がずれるかもしれませんが、高校のときに習った数学で、曲線の傾斜を求めるときには、微分という方法を用いました。これは、ある点を通る曲線の近傍を調べ、いかなる傾きで入り、いかなる傾きで出ていくかを知ることによって、曲線自体の傾きを知ろうとしたものですが、一つの生命自体が、どのような全体像をもっているかを知るには、一瞬の生命の実体を、くわしく分析する必要があるのだと思います。
 これになぞらえるならば、相・性・体は点であり、力・作・因・縁・果・報はこの一瞬の生命の多角的な分析になる。それを兼ねそなえて、初めて生命がどのような傾きをもって運動していくかを、知ることができるのですね。
 川田 物理においても、物体の運動を知るには、物の重さと、速度を知らなければなりません。それによって運動を分析できる。同じ原理だと思います。
 池田 相・性・体、それに力・作・因・縁・果・報は、そうした脈動する生命を的確にとらえているのだが、これらの如是を統一した原理がある。それが第十番目の「如是本末究竟等」です。「初めの相を本と為し、後の報を末と為し、此の本末の其の体究って中道実相なるを本末究竟等と云うなり」(六巻抄18㌻)とあるとおりです。
 一瞬の生命に九つの如是がことごとく具備し、しかも一貫している。地獄界にも修羅界にも、二乗にも菩薩・仏にも、一貫した九つの如是をそなえている。どれ一つが欠けても、生命の真実の姿とはいえない。初めの相から最後の報にいたるまで、一貫した統一的な姿を示す――この原理を本末究竟等というのです。これが中道実相、すなわち生命の本然の姿である。
 しかも、一瞬の生命がそなえている九如是が、そのまま次の如是へと移っていく。如是報が次の如是相・性・体となり、さらに、力・作・因・縁・果・報が形づくられていく。こうした連鎖の運動の真実の姿を、十如是論は見とおしているのです。だからこの「如是本末究竟等」がなければ、十如是は完結しないともいえるのです。
 九如是というのは瞬間瞬間、十界のそれぞれを顕現しつつ、動いている生命を分析的に把握したものです。しかし仏法は、物を分析的に見つつも、つねに全体観として統一体としてとらえなおしている。十如是を、いったんはパラバラに説いたようにみえながら、じつはそうではなく、みごとな連関性、統一性をもった主体であることを、明らかにしたのです。十界論においても、十界がバラバラに説かれているようでありながら、それを、十界互具として統一しなおしている。仏法の偉大さは、つねに分析と統一を繰り返しながら、生命を全体的に把握している点にあるといいたい。
 最後に、この「如是本末究竟等」の原理を敷衍するならば、初めの相を本とし、終わりの報を末として、それが究竟して等しいのだから、相――すなわち現実にあらわれた姿をとおして、それがもたらす報まで知ることができるということです。日蓮大聖人の「聖人知三世事」に「近きを以て遠きを推し現を以て当を知る如是相乃至本末究竟等是なり」とあるのがそれです。このなかで、「現」とは現在一瞬の生命であり、「当」とは未来における生命状態をさします。
 この原理をもって三世を見とおしていくのが、仏法の原理を会得した悟達者・仏なのです。
 これは一個の生命にかぎらず、社会・国土という単位でもあてはまるのではないだろうか。社会という生命体が、いかなる運動法則にしたがい、いかなる報を顕現するか。それは、生命の全体像としての相・性・体を的確に把握することによって、知ることができるのだと思う。仏法の十如是論は、そこまで説いた卓越した原理だということを示唆しておきたい。

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