Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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宇宙の源流  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
9  北川 そこで、前に、私たちは、生命的時間の立ちあらわれる源を求めて、私たち自身の生命流を生の内奥へと追究していきました。そして、生命流の源は、大宇宙の変転をも包みこんでいる事実を知りました。空間においても、同じようなことがいえるのでしょうか。
 池田 時間と空間が一体となり、融合体を形成している以上、人間の生命流の根底においては、生命的空間と生命的時間も、たがいに融けあい、渦巻いていると考えるのが妥当だろう。もっと端的に表現すれば、私たちの占める生命空間は、生命流の根源に近づけば近づくほど、かぎりなく拡大し、人類全体を含み、あらゆる生き物をのみこみ、地球や星の占める物理空間をも包含し、無限の宇宙とさえ合一するのです。
 そこでは、もはや、人間生命とか、素粒子とか、動物体とか、植物とか、太陽とか、星といった形態的な区別は存在しない。すべての生命体が、無生の物体をも含んで、宇宙生命そのものとして渦巻いている、と考えることができるのではないか。
 それがまた、ひるがえってみれば大宇宙のすべての現象を織りなし、動かしている。この究極の体を「南無妙法蓮華経」といい、また「久遠」というのです。
 川田 日蓮大聖人は「一生成仏抄」において「一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に徧満へんまんするを指して万法とは云うなり」と述べられています。
 ずいぶんたくさん、仏教用語が出てきますが、だいたいの意味は、「一念の心」には、あらゆる宇宙森羅万象、つまり、大地も大空も、動物も草も木も、すべてが含まれている。そして、その「一念の心」が全宇宙へと広がっている。これをさして、万法、つまりすべての法を含んだ根本の法というのである、といったような意味だと思います。
 さて、ここにある「一念の心」とは、私たちの生命の根源であり、宇宙生命自体でもある「南無妙法蓮華経」といえます。また「法界」とは、時空融合体としてあらわれた大宇宙の営みをさすと考えられますね。
 池田 大宇宙のすべての法は、宇宙生命そのものに内在している。現代的な言葉を使えば、時間、空間としての法といいなおせよう。宇宙を顕現させる法も、星や生き物を形づくる本質的な法も、すべて、「久遠」に内在し、脈打っている。この「妙法」が、具体的な働きとしてあらわれるとき、私たちの生命を形づくる生命的時空ともなっていく。
 そして、宇宙に存在するあらゆる生命の″我″は、宇宙生命そのものに憩いつつ、その力をくみいだして、現象世界での活動をなしゆくのです。生命の″我″と、宇宙生命は、その根底において一体であり、融合している。つまり、「宇宙即我」の原理だね。
 北川 非常に高度な思索になってまいりましたので、このあたりで、私なりにまとめてみたいと思います。
 まず、私たちの生命の″我″は、宇宙生命自体と渾然一体となって息づいている。そして、宇宙全体を含めて、すべての″我″には、大宇宙のすべての現象を織りなす根源的な力が秘められている。その根源的な力が、生命流として現象の世界にあらわれるとき、生命の″我″は、星や生物や宇宙などの具体的な姿をあらわす。
 また、私たちの生命の″我″が、この地球上に顕現するとき、その″我″のもつ生命的エネルギーが生命流となって噴出するのであり、その生命流の動きに沿って生命的時空が形成される……。
 池田 もう一度だけ念を押しておきたいのだが、大事なことだからね。あらゆる生命の″我″と、その根源的な力の顕現が、時間と空間を生じさせるのであり、生命活動をはなれての、いかなる時空も存在しないということだね。もし、このことが理解できなければ、「瞬間即永遠」の原理も、「宇宙即我」の原理も、とうてい納得することはできない相談だからね。
 北川 無限の空間と時間、つまり、宇宙の広がりですね。それがまずあって、そこに星や天体や私たちが入れられているのではない。そうではなくして、宇宙という実在とあらゆる生命的存在の奥底に、根源的生命があり、その生命の本来的な働きが、かぎりない時空をつくりだすのですね。
 具体的に時間論からいえば、宇宙生命の″我″と、その力の噴出が、大宇宙の、成住壊空を織りなすのであり、人間生命の″我″からわきでる生命流が、少年期から青年、壮年の時代を経て老年期へと流れる生命的時間を刻むのだといえますね。
 池田 そうだね。そこで、結論していえば、宇宙と生命の本源には、根源的な力と時空への具象化の可能性とをそなえた、あらゆる生命の″我″が、たがいに融合し、渾然一体となって、宇宙生命自体に憩っている。これらの、すべての″我″に現象世界へと顕現する力と可能性を与えている究極の体を「久遠」というのです。そして「久遠」は、そのまま「南無妙法蓮華経」なのです。
10  川田 そうしますと、「南無妙法蓮華経」には、根源的生命を中心として、すべてが統合され、含まれていると考えてよいのでしょうか。
 池田 そう考えてもよい。だが、さらに厳密にいうと、根源的な生命の″我″、力、時空をさえも生みだす源泉としての、大宇宙生命の本源、それが「久遠」であり、「南無妙法蓮華経」なのだね。
 川田 そうしますと「久遠即末法」の原理とは、生命論からいえば、「久遠」としての大宇宙生命と、そこに息づく生命の″我″が、現象世界を繊りなしている姿をさしているのではないでしょうか。
 池田 そう。たとえば、宇宙生命の″我″は、成住壊空の脈動をたたえつつ、無限の時空へと広がっていく。しかし、それは、現在の一瞬の宇宙の本源に内在する「久遠」の働きであり、「南無妙法蓮華経」の宇宙大の根源的な力の噴出です。
 しかも、現実の世界を織りなす唯一の実在は、現在の一瞬であり、この一瞬にあらわれた宇宙の姿のみです。さらに、現在の瞬間に顕在化した大宇宙そのものを支える宇宙生命の″我″と、あらゆる存在者、たとえば、私たちの生命の″我″は、たがいに融合し、統合しあって、生の奥底に渦巻いている。
 つまり、現在「一瞬」の宇宙は「永遠」の流転を含み、しかも、そのなかに、あらゆる″生命″の″我″を内蔵している。また、宇宙生命に憩うおのおのの生命の″我″も、時空への具象化の可能性と力をたもっていることは、いままで、たびたび述べてきたとおりだ。このような宇宙生命に内在するすべての″我″を、具体的に、「永遠」と「宇宙」ヘと開いていく「南無妙法蓮華経」の本来的な働きを「久遠即末法」の原理と称するのです。
 しかし、いまもいったように、たしかに宇宙の働きそれ自体は「久遠即末法」といえるし、私たちの生命の″我″も、「永遠」と、「宇宙」へと広がる根源的な力を含んでいる。だが、現実の私たちの人生は、「永遠」を含むといっても、一年先の生をさえ先取りしてはいまい。「宇宙即我」といっても、私たちの生命的空間は、地球大にさえも広がってはいないように思う。
 そこで、生命論の議題も、ようやく、瞬間に永遠を生き、かぎりなく広がる物理空間を覆いつくす生命空間の顕現の方途を模索するところに入ってきたように思われる。

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