Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

時間の謎  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
10  北川 ウィーン大学の神経科の教授でもあり、ユダヤ人としてアウシュビッツ収容所に入れられ、死線を超えてきた、フランクル博士(精神分析学者)は、その体験を託して有名な『夜と霧』という本を書いています。そのなかに、次のように記されています。
 「彼自身の未来を信ずることができなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うと共に、彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった」(霜山徳爾訳、『フランクル著作集1』所収、みすず書房)とあります。
 池田 博士が生き延びることができたのも、未来にかけた信念の賜物だろうね。希望、夢、使命、信念などは、未来を開く力であり、内的な主柱であり、力強い生命流の内容だと思う。
 私たちの生命流は、現在の瞬間に生きながら、過去のすべての体験を含み、それを基盤としながらも、無限の可能性をはらんだ未来を切り開いていく。
 具体的にいえば、過去のあらゆる記憶を再現し、回想させつつ、未来への希望あふれる目標に向かって出立していくのが、現在の瞬間の生というわけだ。
 したがって、過去の生も、そのすべてが現在の内容となり、未来のかぎりなく開かれた人生の基盤もまた、いまのこの一瞬に集約されている。つまり、過去、未来と切り離された現在は、現実には存在しないし、現在の生に包含されない過去もなければ、未来もありえない。
 日蓮大聖人の「御義口伝」には「已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり」とある。現在の生と、過去、未来の生の本源的なあり方を考えさせてくれる至言です。
 北川 過去といい、未来というも、その本源をたずねれば、現在と一体である。しかも、その現在の生に含まれる過去と未来は、私たちの生命を、その内奥まで深くたどればたどるほど、かぎりなく広がっていくのですね。
 池田 生命は、生の表層から内奥にと深まるにつれて、その水かさを増し、内容を豊かにし、巨大な潮流となっていく。
 私たちの生の瞬間に噴出する生命流の源は、人類の生を含み、地球の歴史をのみこむ、大宇宙の悠久たる変転をも包みこんで、宇宙生命の本流に流れ込んでいるといえます。この宇宙生命の本流が噴出し、個別化したのが、われわれの生命であると考えられます。
 「妙法」とは、この宇宙生命を説ききわめ、あらわしたものであるわけです。
 したがって「妙法」は、過去永劫の生と、未来永遠の生をはらんでいる。そこでは、もはや、現在、過去、未来などという現象的時間における立て分けは通用しない。過去も、未来も、現在の瞬間と融合し、一体となる。一瞬といえば、瞬間の生とも表現できる。だが、永劫といえば、永遠常住の潮流とも考えられる。つまり、瞬間でもあり、同時に永遠でもある。
 川田 日蓮大聖人は「三世諸仏総勘文教相廃立」(以下、「総勘文抄」と記す)に「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり」と記されている。
 このなかの「一念の心中」というのは、私たちの生命の奥底であり、同時に、宇宙生命そのものとしての「妙法」と解してよいでしょうか。
 池田 「妙法」それ自体である、生命の本源の実在を説いた文です。宇宙生命においては、現在、過去、未来といえども、一体となって、まったく無分別である。分別することができない。それでいて、「一念の心中の理」とあるように、その永遠即瞬間の生命が、差別となって具体的な活動を営んでいく。
 つまり、本質的には無分別でありながら、過去、現在、未来へと分かれていく差別相をもはらんでいるのだといえよう。
11  川田 ベルクソン(フランスの哲学者。一八五九年〜一九四一年)の時間論では、過去、現在、未来の三態は、意識の発達をまって分化していくのだと説いていますが……。
 池田 ベルクノンの時間に対する考え方は、非常に独創的だね。そして、きわめて仏法的だともいえるね。
 彼は、意識の本質は流れであり、「流れる時間」と表現している。この「流れる時間」というのは、私たちが物理的、客観的時間としてとらえてきた時間を「流れた時間」であるとし、それに対して、あくまで、意識というか、むしろ、生命の流れ自体をあらわしたものだね。
 だから、過去とか現在とか未来という区分は、もともとあるのではなく、流れる意識がつくりだすものだということです。つまり、無差別から差別が生じるのだね。
 したがって、大自然を含む宇宙万物は、宇宙生命流の織りなす生命的存在といえるわけです。だから、私たちの生命流が強ければ、大自然へと積極的に働きかけ、自然の営みを十二分に織りこんでの生命活動ができるわけだ。いいかえれば、おのおのの生命に特有のリズムに生きながらも、自然の歩みとも調和していける。
 人間のみならず、あらゆる生き物は、すべてそれぞれ各自の時間をもっていよう。しかし、人間生命ほど、生まれながらにして、豊かな生命流にめぐまれている存在はないと思う。それは、人間生命のみが、自然の律動と調和しつつ、それを超え、身体の流れと融合しつつも、そこから、意識、精神の多様な潮流を生みだしている事実を見れば、容易に納得のいくことだろうと思う。
 北川 ところが、人間は、通常、そのめぐまれた生命流を十分には発揮できないでいる。いや、むしろ、生命の流れをみずからの行為によって弱めたり、速度をゆるめたりしていると思われます。力強く、速い生命的時間を感じ、そこに生きる可能性をたっぷりと秘めながら、あえて、苦しんでいるようなところもある。まったく、皮肉な現象ですね。
 池田 そのとおりだね。
 北川 そうしますと、私たちの実際生活にとって大切なことは、現在の瞬間をどう生きるか、という生命の姿勢ですね。
 池田 現在という一瞬を充実させ、生命流の力を強めるか、それとも「妙法」としての宇宙生命からわきだす生命の流れの速度を遅くしてしまうか、ということだね。
 瞬間の生に内包された″無限の宝″をうまく利用できれば、人生はかぎりなく豊かなものになろう。そのためには、まず、現在に含まれる過去の「記憶の貯蔵庫」を開くことだ。
 そのカギを握っているのは、仏法の実践行為だと、私は確信している。信仰という、仏法の実践によって、人は、瞬間の生命の内奥に貯蔵された無限の過去をよみがえらせることができよう。その過去は、自己の体験流を乗り越えて、万物の始源にまで延びていくはずです。
 ただ、こうしてよみがえった、″無限の宝″を、生の創造と充実に活用していくのは、個々の人間生命であることを忘れてはなるまい。過去を未来に生かす――その行為のなかにこそ、人間の存在意義があるのではなかろうか。
 私たちが、いままで話しあってきたように、未来もまた、無限の可能性をはらんでいる。ところが、皮肉なことに、人は通常、未来のはらむ可能性をできるだけ貧しいものにしようとしているかの感を受けざるをえない。
 絶望と断念と悲哀は、自己の前に開かれた未来を閉ざしてしまうであろうし、逆に、希望と決意と歓喜は、過去のもたらす″宝物″を受けいれつつ、かぎりなく豊かな未来を切り開いていくにちがいないと思う。
 しかも、過去と現在によって開かれた未来は、瞬時にして、現在の生をはぐくみつつ、過去へと去っていく。だが、過去へと過ぎ去った未来は、決して永久に消えうせたのではなく、ただ過去のなかに退いたにすぎないのです。現在の一瞬の生によって、ふたたび、未来を生む原動力としてよみがえってくる。
 こうして、未来に想いを馳せ、決意し、希望にあふれた人間の行為が、過去と未来を融合させ、現在の瞬間を充実させつつ、生命の潮流の速度を加速するのでしょう。
 北川 つまり、豊かな過去は、豊かな現在と未来を保証し、充実した現在と未来は、みずからを生みだす過去を、さらに豊かなものにしていく、というサイクルですね。
 池田 だが、そのサイクルの始点は、あくまで現在、一瞬の生にある。一瞬の生を有意義に生きれば、そのなかに、無限の過去と未来が、ほとばしる生命流の潮となって、現実の、私たちの生命をうるおしていく。
 そのとき、一瞬の生命に、永劫の過去と未来を内包した宇宙生命としての「妙法」が姿をあらわし、「瞬間」はそのまま「永遠」となる。
 つまり、「瞬間」のなかに「永遠」が立ちあらわれてくるということだね。そして、私たちの生命流は、宇宙生命のもつ大潮流と合体する。
 北川 仏法で説く「瞬間即永遠」の意義ですね。
 池田 瞬間の生に、永遠の実在をあらわすような現在を生きたいものだね。過去の″貯蔵庫″を開きつつ、希望と期待に胸をふくらませて未来を決意する。その決意も、空間的にいえば、宇宙大に広がり、時間からすれば、未来永劫にわたるものでなければなるまい。
 しかも、万物を生みだし、育て、創造する宇宙生命の本源的な働きに沿う決意こそが、人間としての本来的な決意ではなかろうか――。
 さらに、具体的にいえば、人類と万物の、永劫の平和と繁栄をめざした決意であり、すべての生き物の苦悩を断ち切るところに目標を定めた決意であり、そこに、人間としての生きがいを見いだす使命感にめざめた決意が、過去を開き、未来を開くのです。
 つまり、私たちの生き方は、過去に根ざしながらも、過去に生きるのではない。未来に想いを馳せるあまり、現在の瞬間をおろそかにするのでもない。未来に偉大な目標を定め、それに向かって決意し、未来を先取りしながら、使命感にめざめた現在の歓喜に生きたいものだと思うね。

1
10