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宗教・思想・道徳  

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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24  倫理・道徳をささえるもの
 池田 倫理・道徳の退廃ということがいわれて久しくなります。これに対して、人びとの心のなかに倫理・道徳観を復活させようとの試みもなされていますが、実効をあげていないようです。私には、倫理・道徳の退廃の背景に、それを生みだし、ささえていた、より根源的な価値観の崩壊があるように思われます。
 この点に関して、倫理・道徳の役割は何であり、また、それをささえるものは何であるとお考えか、おうかがいしたいと存じます。
 松下 今日、倫理・道徳の退廃がいちじるしいことはご指摘のとおりで、まことに憂慮すべきことだと思います。
 その原因についてはいろいろありましょうが、一番根本となるのは、人間の物心一如の繁栄というものを絶えず検討し、追求していないところにあると思うのです。そういうところから、倫理・道徳の本質を見誤り、それが退廃をもたらしたと考えられます。
 道徳というものは、本来実利に結びつくものだと思うのです。つまり、正しい道徳が人びとの間に行なわれれば、それは必ず物心両面のプラスになってあらわれてくるということです。そういうところに道徳の本来の意義があるわけです。
 ところが一般には、道徳は実利に結びつくとは考えられてはいませんし、もちろん教えられてもいません。むしろ、道徳は犠牲を払うものである、だから尊いのだというのがいわば通念となっているのではないでしょうか。そこに大きな誤りがあったと思います。
 かりに親に孝行することが一つの道徳としますと、親に孝行することによって、そこから親にも自分にも喜びが生まれ、円満ですべてがスムーズな家庭ができてくるでしょう。そういう喜びにあふれた家庭であれば、各人の働きも高まってくるでしょうから、物心ともの実利が生まれてくるというわけです。
 親に孝行することによって親も困るし、自分も損をするというのであれば、これは道徳になりません。道徳というものは、必ずそれを行なう人も、その対象になる人も、ともに幸せになることを前提としているわけです。
 それを今までは、道徳は犠牲をともなうと考えていたわけで、これではよほど立派な人でないかぎり、自分の損になるのならやめておこうということになると思います。たしかに道徳には、一見犠牲のようにみえる面があります。しかし、私はそれは、いわば事業における投資のようなものではないかと思うのです。資本を投じたそのときは形のうえでは損をしたようにみえても、それは先へ行って、より大きな利となって返ってくるのです。資本を投じっばなしというのでは、投資になりません。それと同じように、犠牲を払っただけというのでは、それは真の道徳とはいえないと思います。つまり、道徳はいわゆる滅私奉公ではなくて、自他共栄を生むものなのです。
 よく、戦前の道徳があの太平洋戦争に結びついたというようなことをいう人がありますが、私はそうではないと思います。むしろ、自国を愛するごとく他国も愛するといった、真の道徳がなかったことが、戦争を生む結果になったのだと思うのです。もし、戦前においてそういう正しい道徳があったなら、あの戦争は起こらなかったでしょう。
 そのように、道徳というものは、それが正しく踏み行なわれれば、人びとが幸せになるとか、国が治まるとか、総合的に必ず実利に結びついてくるものです。そういう正しい道徳観が十分認識され、教えられることが大切だと思うのです。
25  百年後の世界の思想は
 松下 百年後、世界の人びとの生活をつくりあげていく思想は、いったいどういうものになっているでしょうか。今日と同じくさまざまの思想が混在して、それなりに生活を築いているのでしょうか。それとも、なにか一大潮流となるような思想が、世界の人びとの生活に浸透しているでしょうか。また五百年後はいかがでしょうか。
 池田 私は宗教者であり、歴史学者でもなければ予言者でもありません。百年後、五百年後のことを予測するのは差し控えて、思想の潮流はどうあらねばならないかという観点から考えてみることを許していただきたいと思います。
 さまざまな思想が混在すべきか、一大潮流となる思想が流布すべきかという問題は、二者択一の問題であるというよりも、二つの問題提起であると私は考えます。どのような思想が、それぞれ独自の価値を発揮しながら混在していくべきであり、どのような思想が一大潮流を形成していくべきかという問題に置き換えてみることです。
 この問題は思想の意義内容の問題となってきます。思想ないし価値観というものは、人それぞれに独自なものであるべきです。各人に独自であるべき物の考え方を力で圧迫しようとしたり矯正しようとするのは誤った考え方です。私たちは他人に教え、忠告する権利は無限にもっておりますが、強制する権利は一片だにも持ち合わせていないのです。
 独自性をもつということは人間にとって至上の価値であり、思考は人間の精神的営みのなかで最も尊い部分を形成しています。したがって、人によって物の考え方が違うということは、当然のこととして認められなければならないでしょう。人びとが真実の、個の自立を成し遂げ、自己の信ずるところに向かって歩んでいるとするなら、他の考え方を強制し、圧迫することは、けっしてあってはならない。また、そうした力による強制が、人びとの心を長く支配できないことは明らかです。結局、いかなる強大な権力も、地球上のすべての人びとを掌中に収めることはないでしょう。
 そうした独自性を認めたうえで、それらの根底となるべき共通の思想的基盤は必要です。それは生命尊厳の思想です。いっさいの思想は地球上の生命を守り抜くためにこそあるべきですし、それを脅かす思想は、断じて受け入れるべきではありません。平気で人間同士が殺しあう悲惨さを繰り返している現代の世界を転換するためにも、この基本的思想だけは、世界共通の一大思想潮流となって生活、人生のあらゆる分野に浸透していかねばなりません。
 それが、百年後に達成するか、五百年後になるかは私にもわかりません。百年後には達成しているかもしれないし、力およばず、五百年たってもまだ微々たるものであるかもしれません。しかし、この思想を支配的な潮流としていくための必死の努力だけは、二十世紀の人類が、未来の子孫に届ける最高の贈り物として、継続しなければなりません。
 将来のことは予測できませんが、ただ、現在すでに現代文明のもたらしたさまざまな課題が、今や人類を一個の運命共同体であると考え、生命を至上の存在と考える思想を基本的理念としてその共同作業をもって取り組まなければならない事態をもたらしていることだけは確かなようです。
26  形而上と形而下
 池田 今日、形而上の問題と形而下の問題とは二元的に切り離して考えられる傾向が強いようです。私は、この二つは必ずつながるとの考えをもっておりますが、この点についてのご意見をお聞かせください。
 松下 実は私は、形而上・形而下というような言葉は知らなかったのですが、説明を聞きますと、ごく通俗的にいって、形ないものと形あるもの、いわば精神と物質、心と物ということのようにも思われます。
 そうといたしますと、私はこの二つを切り離すのではなく、必ずつながるというお考えに賛成です。
 私は、かねてから「塀批ぃち婿」ということを申しております。ご承知のように、私はPHP研究所というものを島索し、そのモットーとして「驚鶯によって平和と幸福を」ということを唱えてまいりましたが、その場合の繁栄にしろ、平和にしろ、幸福にしろ、たんに物的なもの、形にあらわれたものだけでなく、日に見えぬもの、心の面をも含めた、いわば物心一如の繁栄、平和、幸福なのです。
 そのことをたまたま、月刊誌『PHP』の創刊号(昭和二十二年四月号)に書いておりますので、やや長文になりますが、その一部をここに引用させていただきます。
 「繁栄というとすぐ思い浮かべるのは草木の生い茂って大きく生長していく姿であろう。幹も太くなり、葉も茂っていく。このように世の中が栄えていくことが望ましい。しかし幹や葉ばかりを見てはいけない。太い幹、茂った葉をささえる根の広がりを忘れてはならぬ。目に見える栄えの陰に目に見えぬ栄えがともなわねばならぬ。世の中の栄えも、ただ人びとが金持ちになる、暮らしが楽になる、というような物質的のことだけを繁栄というのではない。これと同時に心も豊かになることが望ましい。
 学問、思想、芸術というような心の働きが高まってくる。道徳も向上する。すべて伸びやかに住みよい世の中になることがほんとうの繁栄であると思う。これを物心一如の繁栄といったらよいであろうか。物と心が別々でなく、お互いにつながりのある豊かさが繁栄の姿であるといいたいのである」
 「平和というとすぐ戦争を思う。戦争をしないことが平和だと思う。なるほど戦争を代表とする争い――国内の争いでも、一家の争いでも、個人間の争いでも――なんの争いもないところに平和がある。しかし平和というものはもう少し突っ込んで考えてみると、落ち着いた心の在り方をいうのではなかろうか。嘆き、恨み、ねたみというような心をかきみだすもののない澄み切った心が平和の姿であろう。形に見える争いのないということより、もっと心のなかに食い込んだ平和というものを観念したいと思う」
 「幸福ということは物心一如の幸せという意味にとりたい。物の満ち足りたありさまは幸福の力強い条件ではあろうが、また『狭いながらも楽しいわが家』という見方もある」以上、引用が長文にわたりまして恐縮ですが、このように私は、あらゆる面で、本来、物心一如ということを考えており、形而上・形而下の問題は必ずつながるというお考えに全面的に賛成するものです。

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