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人生問答 繁栄への道

「人生問答」松下幸之助(池田大作全集第8巻)

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33  才能と職種
 松下 人間みな顔形が異なるように、それぞれの才能、天分も異なると思います。したがって、いわゆる適材適所ということが実現され、すべての人が真に自分の天分を発揮できるためには、それだけ多くの職種が必要になってきます。そこで、そのような観点にたてば、より職種の多い国ほど、進んだ好ましい国であり、政治の要諦もまたそういうところにあると思うのですが、いかがでしょうか。
 池田 人間は、一人ひとり、独自の個性をもち、才能をもっています。したがって、一人ひとり、自己の適所を発見するためには、多くの職種が必要となるでしょう。ここまでの考察には全く同感です。
 しかしながら、この考察から、職種の多い国ほど進んだ好ましい国であると結論づけるのは、少しばかり飛躍があるように思われます。もし、この論法を推し進めるならば、人間の個人差だけ職種が必要であるということになってしまわないでしょうか。そのような社会が存在するとは思われません。
 では、どこに、この論理の飛躍があるかといえば、第一には、やはり、人間の才能と職種とをストレートに結びつけた点にあるようです。同じ職種であっても、異なった才能の人がたずさわったほうがよい場合が少なくないからです。
 第二は、職種の多少と、国家の良否を、これも、算術計算的に結び合わせた論理にも、私は賛同いたしかねます。といいますのは、職種は国家によってつくられるものでなく、人間の工夫と社会の要望によって自然に生まれるものだからです。
 第一の点についてさらにいいますと、人間の才能、天分、個性などをあまりにも単純に割りきりすぎているように思います。いかなる人といえども、それぞれ独自の才能をもちながらも、その基盤には人間としての共通の特質をなす多様性をそなえているはずです。たとえば、ある人が、数学上の才能は抜群だが、言語能力には自信がないとします。それでも、猿の仲間などとは比較にならないほどの言語を駆使していることはいうまでもありません。もし、この人から言語の使用を禁止すれば、人間としての生を保つことさえ不可能となりましょう。
 つまり、人間生命は、最大公約数としての共通基盤にささえられ、そのうえで、個々の才能なり、天分を発揮できるのです。人間としての本質的な基盤を失えば、どのような才能も枯渇し、生存の力さえ枯れおとろえていかざるをえません。こうした人間生命の本来的な在り方を熟知したうえで、個性ができるかぎり生かせるような適所を得ることが必要になってきます。
 そうしますと、かりに職種を分割して、数を増加させるとしても、ある一定の限度があるといえます。その限度は、当然、民族、国家を形成する人びとの特質に応じて変化してくるでしょう。
 とくに、現代社会は、その発展につれて分業化を進めてきましたが、今日では、職種の分割が進みすぎて、かえって才能を枯らし、あげくのはてには、心身の障害を生じている場合も少なくないように思われます。たとえば、手先が器用であるとか、耐える力が強いなどといった特質をもった人がいるとします。そのような人でも、終日、機械と顔を突きあわせての単純な作業だけにたずさわっていれば、心身症やノイローゼなどの現代病に侵されてしまうでしょう。むしろ、関連する分野の仕事をも含めて一つの職種とし、変化ある作業にたずさわるほうが、才能をよりよく生かす道であろうと考えます。
 また、精神労働の場合にも、職種をあまり細かく分割すれば、全体観を見失い、創造の意欲さえなくしてしまいかねません。あるていどの幅をもたせ、そのなかで自由に選択していく方法のほうが、新鮮な発想もわくというものです。
 今日、学問の世界において、総合化が試みられている理由の一つは、明らかに、分割しすぎた研究分野での、研究者たちの才能の限界を打ち破ろうとすることにありましょう。私は、このような種々の考察を踏まえたうえで、次の二点を主張したいのです。それは、まず、職種は、人間生命に関連するすべての分野にわたるのが自然であって、ある特定の分野の職業を禁止するなどといった政治的介入は許されないということです。ただし、人間生命の破壊や人間的権利の侵害を目的とした職業領域――殺人兵器の研究、生産とか、死の商人としての職業など――を、正当な職種として認めるべきでないことは当然です。第二の主張点は、人間の才能を生かすには、職種の自由な選択を保証することであり、政治の要諦は、この自由を、あらゆる障害を除去して、守り抜くことに集約されると考えます。
34  富の公平な配分
 池田 今日は、昔と比較した場合、たしかに一人ひとりの生活は物質的に恵まれているといえます。しかし、それでもなお、大部分の人は経済的、物質的面での不足を感じています。私は、この原因の一つは、富の偏在――公平な分配がなされないところにあると考えます。この点に関して、どのようにお考えでしょうか。また、資本主義経済のなかにあっての富の公平な配分は、いかにしたら可能になるとお考えでしょうか。
 松下 ″富の公平な配分″という言葉、あるいはその考えには私も全く賛成です。富の公平な分配は人間にとってきわめて大切なことであって、かりにも不公平があれば、これは極力排除していかなくてはなりません。
 ただ、問題はどういうことが公平なのかです。これが非常にむずかしい問題です。それぞれの人の働きに応じて分配するとなれば、額に甲乙が生じてきます。かといって、すべての人に均等に配分すれば、その働きに対しては不公平だともいえます。
 人間なり国民としての権利は同一であっても、どれだけの富を生みだしているかということは、千差万別です。というより、富を生みだす人のいる一方で、富を食いつぶすという人もいます。そういうものをどう評価してどう富を配分したら公平なのか、これはほんとうに判定のむずかしいところです。見方によっては、ほんとうにすべての人が公平だと満足するような配分方法はないのではないかとさえ考えられます。
 ですから、私は公平な配分という趣旨には賛成ですが、何が公平かということについては十分論議を尽くして、できるだけ多くの人の合意を生みだすことが先決だと思います。私なりに考えれば、富を生む人、生みも減らしもしない人、食いつぶす人、いろいろありますが、半分は頭割りで均等に配分し、半分は富を生む働きに応じて配分するということが、あるていど公平といえるのではないかという気がしますが、いずれにしても、国民合意のうえで、なんらかの基準をつくり、それにしたがって富の公平な分配を図っていくことが大切だと思います。
 そういう合意にたって、日本のような資本主義の国で、いかにすれば富の公平な配分が可能かということですが、やはりそれは、税金と社会保障ではないかと思います。そして現に今日の税制は、そういったことを加味して高度の累進制をとっています。たとえば、個人の場合、所得税と住民税を合わせて、最高八〇パーセントまでが税金として累進的に徴収されるようになっています。そのほかに、贈与税や相続税も累進的に徴収され、富の不平等を是正するようになっています。
 そういう累進税率でもなお不十分だというのであれば、さらにこれを検討して改定していったらいいと思います。ただ、それが行き過ぎて、公平に名を借りて働く者を虐待するような税率になっては、今度は誰も働かなくなるおそれがあります。ですから、公平という観点からしても、税率は、このていどまでは出さなくてはならないなと、人情からも納得できるものでなくてはならないでしよう。
 いろいろ考えてみますと、公平という趣旨には万人が賛成でも、どうすれば真の公平になるかというのは、実にむずかしい問題です。ですから、政治のうえでも、絶えずそういうことを研究するとともに、また、税制とかその他の面で、公平を実現するために、こういう努力をしているのだという実態を国民に知らせ、そういうところから国民の合意を形成していくことが大事だと思うのです。さもないと、取られるほうも、もらうほうも、どちらにも不公平だという不満感が残るのではないでしょうか。
35  経営者の資格要件
 松下 経営ということは、たんに企業経営のみならず、あらゆる団体、ひいては国家のうえにもあてはまることだと思いますが、その経営をうまく行なうかどうかは、ひとえに経営者のいかんにかかってい2`7繁栄への道ると思います。そこで、経営者としての立場にたつ人の資格、要件というものが大事になってくると思うのです。その資格要件の内容として最も大切なものというと、どのようなものがあるでしょうか。
 池田 あらゆる組織・運動体について、″経営″とか″経営者″という言葉が、そのまま概念として適用できるのか、多少疑問があります。さらに、いかなる組織にも共通した、中心者の資格要件というものが、はたしてあるのかという点も、厳密に考えますと疑問です。その組織の規模、構成、機構、そして、なによりも、その″目的″によって、その行動様式も、中心者の在り方も、相当異なってくるのではないかと思うからです。
 また、ごく一般論として、いわゆる″指導者論″なるものも、ここで、あらためて論ずるまでもなく、幾多の論著が巷間に出ておりますし、なによりも、歴史のなかから、さまざまな教訓を学びとることができると思います。私自身『三国志』とか『水滸伝』、また歴史に一時代を画した人物の生き方などをとおして、多くの貴重な教訓を得てきました。それらのなかに、指導者の条件のなんたるかは、ほとんど尽くされているといってよいと思います。
 したがって、ここでは、そうしたさまざまな教訓と、私自身一つの組織をあずかる責任者としての、今までのいささかの体験のなかから、組織の指導者の条件、中心者の要件について、感じたままを、のべることにしたいと思います。
 まず、人間によって構成された組織であるかぎり、その中心者は、なによりも、人間としての全人格的な力をそなえることが、第一の前提となる条件ではないかと確信します。多種多様な欲求や才能をもった人間を生かしつつ、指導する立場にある以上、偏った人格では、全き組織の推進は図れないといえましょう。人それぞれの個性を生かし、包容しながら、全体として一つの確かな方向に舵をとっていくためには、全人格的な豊かさと深さがまず要求されるといえます。
 この全人格的な力とは、さらにこれを具体的な要素に分けると、一つは包容力、第二に公平さ、第三に確信、第四に責任感、第五に先見性といった内容が含まれると思います。
 包容力は、さまざまな個性をもつ人びとを、大きく包容する人間としての幅と深さです。具体的にいえば、一人ひとりの才能を発見し、また、その境遇や立場を、よく理解し、それぞれが、自信をもって、自分の才能を十二分に発揮しながら、組織の推進にあたれるように、配慮していけるかどうかです。それには、人の心の機微を鋭敏に感じとる心と、大きく相手を包み込む慈愛がなくてはなりません。
 第二に公平さとは、自己の感情や情実で動かされないこと。厳正公平に人を評価し用いていく、一つの″能力″といえます。といっても、機械のように冷たい行き方ではなく、人間愛に根ざした公平さでなければならないことは、論ずるまでもありません。
 第三に確信。中心者のその組織体の目的に対する確固たる信念と、その目的観にたった個々の問題についての明確な判断、組織全体にエネルギーをみなぎらせ、大きく前進させていく力となります。この確信がないと、周りに不安と動揺を与え、出せるはずの力も、十分に出せずに終わってしまうものです。とくに、いざというときに示す、中心者の信念と決意と勇気と果断の有無が、きわめて大切だと思います。
 第四の責任については、あらためていうまでもないでしょう。一つの組織の長であるということは、その組織の最高責任者ということです。責任とは、よく世間でいわれるような″失敗の責任をとる″といった、いわゆる出処進退ですまされる問題ではないはずです。現実の行動のなかで、たしかに責任をもって、こうしたという実態で示されるものでなければなりません。
 五番目にあげた先見性ということは、正しく時代、歴史をみる目があるかどうかということです。組織をあずかり、目標を目指して指揮をとる者にとって、絶対不可欠の要素です。現状に対する正確な認識と、そこを基点とした未来への深い洞察があるかないかが、組織の盛衰を決するからです。
 さらに、今まであげた五つの要件に加えて、最も大切な指導者の条件として、後継者ならびに未来にそなえての人材の育成という問題があります。会社組織においても、また一つの国家においても、この長期的な人材養成が行なわれているかどうかが、最大の眼目になってきます。
 そうした意味で、いかなる組織であろうと、ある指導者が真に偉大であるか否かは、その指導者の死後、三十年から五十年後の状態がどうであるかで、判断できると思っています。未来を担うべき青年たちが、どこまで大切に教育され、未来飛翔のエネルギーをたくわえているかが、一民族、一国家また一組織の盛衰の鍵となると確信します。

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